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「阿弥陀仏-南無」念仏は仏に念(おも)われて 仏を念(おも)うこと(狐野秀存)

「阿弥陀仏-南無」念仏は仏に念(おも)われて 仏を念(おも)うこと(狐野秀存)

 先月10月21日に福浄寺住職継職法要、22日に宗祖親鸞聖人の慶讃法要が厳修されました。その際に講師として来てくださり、御法話をいただいたなかで教えていただいた、狐野秀存先生の言葉を選ばさせてもらいました。

 念仏といえばいうまでもなく、言葉自体が示しているように、私どもが仏を念じること、仏に念い(おもい)を係(か)ける行のことなのに違いありませんが、しかし、実をいいますと念仏とは、一応仏に念いを係けることであるといいましても、実は仏から念われて仏を念うことであり、仏の私ども衆生を念う念いに帰して、仏の念う念いの中で、仏と一つに出会うこと、仏の念う念いの中で、仏と一体化して仏に目覚めることを意味する行であるのです。
      (信國淳「歎異抄講話」 柏樹社『選集』 二巻176頁)

 この言葉は信國淳先生の言葉です。狐野先生は信國先生の教えを受けられておられますので、この信國先生の教えの言葉を思いながら、「念仏とは仏に念(おも)われて、仏を念(おも)うこと」とおっしゃったのだと思います。

 浄土真宗の教えをいただく私たちにとって、念仏とはいうまでもなく、南無阿弥陀仏と口に出して申すことですが、その南無阿弥陀仏は、「実をいいますと念仏とは、一応仏に念(おも)いを係けることであるといいましても、実は仏から念(おも)われて 仏を念(おも)うことであ」ると、信國先生はおっしゃられています。

 「念仏とは仏に念われて、仏を念うこと」、そのことを踏まえて、狐野先生は、南無阿弥陀仏のすがたを「阿弥陀仏-南無-阿弥陀仏」と表現されました。私たちが念仏申すに先立って、あるいは私が念仏申す根源に、阿弥陀仏が私たちに南無しておられる。私たちを信じ、信頼して、尊敬している阿弥陀のはたらきがあることをあらわすのが南無阿弥陀仏であると教えられました。

 浄土真宗、親鸞聖人の教えを一言で表すならば、「如来回向の教え」といえるのだろうと思います。「回向」というのは「パリナーマ」という古いインドの言葉を翻訳したものです。もともとの意味は「転じる」とか、こちらから向こうに「振り向ける」という意味のある言葉だと聞いています。ですから、私の方から仏さまや、何かに念仏を「振り向ける」というのではありません。「如来回向」ですから、如来から私たちの方に、「転じ、振り向けられている」ということだろうと思います。南無阿弥陀仏という念仏そのもの、そしてその念仏を信じる心も、信國先生が教え示されているように、「仏の念う念いの中」、仏から念われて、プレゼントされているということです。

 二つの大切な法要が終わりました。この法要を心待ちにしておられながら、亡くなられた御門徒のこと、「念仏相続ですよ」と繰り返し促してくださった御門徒のことを思いかえしています。たくさんの念仏のすすめのなかにいることを、有難く思います。「仏から念われている」ということを、私自身の生活の原点として定めて、念仏申していこうと思います。 南無阿弥陀仏 釋 誓弥(令和5年 11月 深草誓弥)

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