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自分以外のものをたよるほどはかないものはない。しかし、その自分ほどあてにならないものはない。 夏目漱石

自分以外のものをたよるほどはかないものはない。
しかし、その自分ほどあてにならないものはない。 夏目漱石

 普通、「他人は当てにならない、誰も信じる事が出来ない」と感じると、「最後に頼れるのは自分だけだ」と自分をよりどころにするものですが、漱石は「しかし、その自分ほどあてにならないものはない」と言われます。「じゃあ、何を頼りにして生きていけば良いの?、何を信じていけばいいの?」と問いたくなる今月の言葉です。

 夏目漱石の代表する小説に「こころ」があります。物語は青年が鎌倉の海岸で寂しげな男性と出会い、その男性を「先生」と呼ぶようになった事から二人の関係が始まります。その先生と呼ばれる人は恵まれた環境で育ち、学生の頃に両親と別れ親切な叔父に育てられるのですが、莫大な遺産を奪い取ろうとする叔父に裏切られ、財産を奪われてしまいます。金目当ての優しさだと知って、どんな善人も金がからむと悪人になってしまう人間の悲しい姿を目の当たりにしていきます。一番頼りにしていた叔父に裏切られたことによって、どの様な人も信用できないものだということを、心に深く刻み込んでしまいます。その後勉学のために上京し、下宿先で知り合ったお嬢さんに恋心を抱いた先生は、同じく恋心を寄せる同居人のKを裏切る様にお嬢さんとの結婚を申込み、それを知ったKは自死してしまいます。思い通りにお嬢さんと結婚出来た先生ですが、友人を裏切り、死へと追いやってしまった自責の念に耐えられず、遺書を残して死んでいきます。

 自分以外の者に悩まされ、苦悩するがゆえに他の者(親兄弟、友人、恋人)には頼ることが出来ず、信じる事ができない。その外に対して向けられていた眼が、今度は自分の内面に向けられていきます。そこで知られた自分は素晴らしい自分かと言えばそうではありません。他人を裁き、裏切り、殺していくような心を持ち合わせているのです。一番あてにならない存在は自分自身なのだと気が付いていくのです。

 人間の持つ深いエゴイズム(利己主義)と、命終わるときまで無くならない自尊心を徹底して見つめられた「こころ」という作品は、私たちの我執を深くえぐり出し、人間の闇の部分をあらわにする物語です。

 「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用出来ないから、人も信用出来ないようになっているのです。自分を呪うより外に仕方ないのです。」(『こころ』十四節目)

 この言葉を見ていると、生きていることに何の意味も無い、生きていることが暗く悲しい事のように感じます。しかし漱石は晩年に禅の教えに影響され、そんな自分でありながらも、私を生かしめるはたらきに目覚めていきました。その言葉が「則天去私(そくてんきょし)」です。天に則り、私を去る。自他共に頼りにならず信じる事の出来ないこの世を生きていても、天は私の存在をあるがままに受け入れ、無条件に誰でもが生かされているではないか、という世界を発見した喜びの言葉です。お念仏の世界で言えば「如来大悲の恩徳」であろうと思います。当てにならない自分自身を見つめつつも、天から許されて生かされている我が身がある。その世界に眼が開かれるときにこそ、私たちが誰とでも一緒に生きていける居場所が開かれていくのだと思います。

 漱石と現代とは100年ほど時代が違います。しかし私たちと同じ様に人生の様々な苦悩を抱え、人間という存在を深く明らかにした人です。そして私たちが生まれる前からこの悩みに生きて、後の人も読める文章にしてくれたということは、現代を生きる私たちや、これから生まれてくる人たちの生きる力にもなり、励ましにもなっていきます。

 今月の言葉は「じゃあ、これを頼りにしましょう」という、答えが用意された問いかけでは無く、「そうだ、悲しいけどその通りだ」と頷く他に無い言葉の様に感じました。 貢 清春 平成30年11月

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