平成23年10月
死とは 死を賭して
周りの者を導く 人生最後の授業 (藤原新也)
「死」ということでは、今までも「掲示板のことば」に多く語られてきました。お寺の掲示板には「亡き人(先祖)」や「死」という言葉が沢山出てきます。そう考えると、「死」がいかに生きている私たちにとって大切に受け止めなければならない問題なのかを、常に考えさせられます。その「死」を、今月の「掲示板のことば」では、「周りの者を導く人生最後の授業」であると表現されています。亡き人が「死」ということを賭けて私たちに教え導いて下さっている大切なこととは何なのでしょうか。
以前の随想の中に、東井義雄先生の言葉を紹介したことがあります。
生きているということは、少なくともわたしたちが気がついているくらいのあた りまえのことではないようだ
生きているということのただごとでない底深さ、根深さは、たとえ感傷的にでもいい知っておく必要がある。
この言葉は、同じく東井義雄先生の、「生きているということは 死ぬいのちをかかえているということ」という言葉を受けて紹介したものです。「死」とは、やはり辛く悲しいものです。しかし、誰にでも平等に「死」はやってきます。しかし、その「死」を、今がその時であるという感覚は私たちの日頃の生活の中では出てきません。そうやって、「生」を当たり前のこととして生きている私にとっては、どうしても亡き人、「死」はとても辛く悲しいこととして受け止められるのです。
しかし、今回の言葉は、「死」を「周りの者を導く 人生最後の授業」と表現されています。導くということは、道を教え示すことであると思います。亡き人がその身をもって、「生きていることのただごとでない底深さ、根深さ」を教えてくださっている。そう考えていると、今月の永代経法要での住職の話を思い出しました。それは、「亡き人が仏事(葬儀や法事等)を私に与えてくださっている。そうしないと、私たちは仏法、真実の教えに遇うことができない。」というお話でした。葬式や法事は、亡き人のために勤めるのではなく、亡き人によって仏事を私が開かせていただき、そこでもう一度私の在り方を問う機会をいただくのです。
日頃、「死」をないもののようにし、「生」を当たり前のように過ごしている私たちに、亡き人が「最後の授業」として仏事を与えてくださる。そのことに感謝の心をもって勤めると、現在の葬儀や法事の在り方も、また違ってくるのではないでしょうか。
(深草 教子)