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亡き父母を 縁(えにし)に出遇う 無量の寿仏(ほとけ)

 亡き父母を 縁(えにし)に出遇う 無量の寿仏(ほとけ)

 今年もお盆をむかえることになりました。毎年のようにテレビでは、故郷へ向かう帰省ラッシュが報道され、町内でも他府県のナンバーの車をよく見かけます。広く人びとの習俗に根ざした、このお盆という行事ですが、『仏説盂蘭盆経』からおこったと伝えられます。

この経には、次のようなことが語られます。盂蘭盆とは梵語ウランバナの音写で、意味は「さかさにつるされる」ということです。

 釈尊の弟子に目連という人がおられました。神通第一といわれ、あらゆるものごとを見通す力を持っておられたといわれます。

 その目連が神通力をえて、最初にしたことは、亡き母のことを見ることでした。目連が亡き母のことを見ると、母は餓鬼道に落ちて苦しんでいることがわかりました。

 深く悲しんだ目連はすぐに鉢に飯を盛って母に捧げましたが、喜んで母がそれを食べようとすると、その飯がたちまち燃え上がり、食べることができません。

 目連は母を救えないことを悲しみ、「どうしたら母を救うことができるでしょうか。」と釈尊に訪ねました。お釈迦様はそれに対して「それは、そなた一人の力ではどうにもならぬ。この七月十五日に、飯、百味、五果などの珍味を十方の大徳衆僧に供養しなさい。布施の功徳は大きいから母は餓鬼道の苦難からまぬがれるだろう」と語られたそうです。目連が、その釈尊の仰せにしたがったところ、母はたちどころに餓鬼道を逃れることができたということです。盂蘭盆はこの目連の故事から先祖供養の日となり、今日のお盆となっているのですが、一体これは何を教えていることでしょうか。何故お盆が人々のあいだで大切にされてきたのでしょうか。

 私は「亡き人を念ずる」ということの深さを教えていることだと思います。念ずることは、自分勝手に念じたり、やめたりできることでなく、亡き人の存在が呼び起こしてくる不思議なはたらきです。目連も、亡き母の存在から呼び起こされて、母を念じたのでしょう。しかし、亡き母は餓鬼という、いつまでも満足を得ることができない境遇にあったといわれます。今日では施餓鬼という風習で、亡き人にお膳を施すことが伝えられていますが、私はこのことを、「亡き母が目連を念じて、安心できなかったのだ」とよみたいと思います。供養とは 亡き人に心配かけない 生き方を見つけることなんだ。 そのために仏法を聞くんだ。 心配かけない生き方とは一人一人が自立していくことなんだ」とある先生は供養について語られたそうです。

 目連の物語では、母をたすけるために、仏、僧伽に供養をする、ということが説かれます。「さかさにつるされ」て、苦しむのは目連の母だけではないでしょう。迷いを迷いとも知らず、自分の思うことを「真実」と思い込み、自分ひとりで生きているように振舞う私たち。「亡くなった無量無数の者も、あなたも、いのちの底から求めてやまないことは何か。」そのことを明らかにすることをこそ、阿弥陀のいのちは願っているのでないでしょうか。

                  深草 誓弥

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