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「待った」のかすかな御こえに あやうく立ちどまる 勝とう負けまいの方向へ うかうかと行きかけて 榎本栄一

 「待った」のかすかな御こえに あやうく立ちどまる 
   勝とう負けまいの方向へ うかうかと行きかけて    (榎本栄一)

 今、社会では新型コロナウイルス感染症で、不安が広がっている。この事態を受けて、私自身もこれからどうなるのだろうかと「先行き」が見えないことに不安をいだいている。しかし、ふと気付かされたのだが、そもそも私自身に先を見通すような力は備わっていないのではないか。「先行きが不透明」というが、そもそも一瞬先のことも見通せていない。『観無量寿経』で、釈尊は韋提希に対して「未だ天眼を得ず」と語っている。

  汝はこれ凡夫なり。心想羸劣(しんそうるいれつ)にして未だ天眼を得ず、遠く観ることあたわず。
              (『仏説観無量寿経』 真宗聖典95頁)

 その前に「心想羸劣(しんそうるいれつ)」という言葉が出てくる。「羸」は弱い、虚弱という意味だが、よく見ると字に羊という字が使われている。漢和辞典をみると羊から構成されていて、身体が痩せこけた、病気の羊というのが元々の意味のようだ。この「羸」というのはいろんなことに押し流されていく私たちのあり方を示しているように思う。どれだけ私たちが強い意志や行動力をもっていたとしても、それを超えるような状況が訪れると、押し流されて行かざるを得ない。ニュースで報じられる今回のコロナウイルスの流行に改めて感じるのは、この状況の中に、あらゆる人間の生活がなすすべなく呑み込まれていくような、恐怖である。また、自分自身の「よわさ」に唖然とする。

 全国各地の寺社で、コロナウイルス退散、撲滅祈願がおこなわれている。まさにコロナウイルスに「勝とう、負けまい」とかすかな希望をつなぐように祈願祈祷を求める心も心情としてわからなくはないのだが、同時に「そうではないだろう」といういかりのこころも生まれてくる。現実はそうなってしまっているし、私が祈ったからといって、何もかもがよくなるということはないだろう。

 悲しいことだが、私たちの身の上にめぐってくる出来事は、ほぼ自分で選ぶことができない。「なぜ、このような目にあわなければならないか」と思うが選べない。だから人間は「これは違う。こんなはずではなかった。これはわたしではない。」と、現実の自分と世界とから逃避することを試みる。それが祈願祈祷というかたちで、求められ、あらわれているのでないか。あらためて私は、祈願祈祷では人間を救うことはできないと思っている。「この仏様を拝んでいたらいいことある」というような、私たちの身に何がめぐってくるかを変えることができる宗教は、この世の道理に反するものでないだろうか。

 コロナに勝つか負けるかばかりに気を取られている今だからこそ、「待った」がかけられているのだろう。大切にしたい事は、めぐってくる出来事は変えることはできないが、めぐってきた出来事をどう受け止めていくかということだと思うし、何がその出来事から語られているかを聞いていくことだと思う。「勝とう負けまい」の方向に向かい、もし負ければ絶望しかない。

 釈尊は、四門出遊の物語にあらわされているように、老病死を見て、避けよう、逃げようとされたのではなかった。勝とう負けまいとされたのではない。もちろん避けることができることは、避けなければならない。努力もしなければならない。しかし、そのような私たちのおこないを超えて、あるいは呑み込んでいくように老病死は迫ってくる。コロナに勝つか負けるかではなく、この世の道理と、自分自身のいのちの相に、どう態度をとるのか。そのことを問題としたのが、この四門出遊の物語が教えることではないか。 令和2年4月 深草誓弥

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