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いのちは大事だと言う人は多い だが いのちを粗末にしていると気づく人は少ない

いのちは大事だと言う人は多い だが いのちを粗末にしていると気づく人は少ない

 今月は作上がり法要のご縁が勤まりました。この法要は、田植えの稲作が一段落した後に勤まる法要です。自然(しぜん)のいとなみに目を向け、そのいのちによって生かされてきたことを感じ、それを人間の思いや計らいを超えた世界、自然(じねん)なる阿弥陀のはたらきとして受け止めてきた先達の方々が、作上がり法要という仏縁にして伝統されてきました。「いのちを考えるひと時」として大事に勤めていかなければならないと感じさせられます。

 今月の言葉は、私達が日常生活の中で「いのち」とどう向き合っているかが問われています。「いのちは尊いのだ、大事にしなさい」と言う人は確かに多いです。昨今の無差別殺人や、爆弾テロなどの事件が起こる度に、この言葉は様々なところで叫ばれています。しかしよくよく考えてみると、実生活の私自身の姿は棚に上げて、言葉だけのきれい事で終わらせているように思います。そして実際は、自分自身がいのちを粗末にしている事には気づかないまま、生活しているのかもしれません。

 お釈迦様のあるお弟子の話を通して、今月の言葉を考えてみたいと思います。

 お釈迦様の弟子で、物やいのちを粗末にする人がありました。美しい服もすぐにクシャクシャにしたり、ごはんをいただいても、必ずお茶碗にごはんつぶを残したまま、放っておくようなお弟子でした。それを見かねたお釈迦様は、そのお弟子の服を全部脱がして町を歩かせます。町の人から笑われ、恥ずかしい目に会い、そのお弟子はお釈迦様に「どうか着物をお返し下さい」とお願いします。その時お釈迦様がお渡ししたのは、一束の綿の花でした。「これで着物を作りなさい」とおっしゃるのです。いくらお釈迦様からのおおせでも、お弟子にはその意味が分かりません。「魔法使いではありませんから、とても綿から着物は作れません」というお弟子に対して、着物を作る人のご苦労や出来るまでの行程、お米が出来るまでのお百姓さん達のご恩を、お釈迦様は丁寧にお話しされたそうです。「いろんな人のお陰を受けていることを忘れてはならない。いただいているご恩を忘れ、物やいのちを粗末にしてはいけません」とお戒められた、という話です。

 考えてみると、私もこのお弟子と同じで、他の人々の御苦労をわすれ、全ての物やいのちを我が物顔にして生きている様な気がします。自分の手に入れば自分の物で、背景やお陰を感じる力が無く、「あってあたりまえ」の生活で「お陰さま」を感じるような生活をしていないのではないかと反省させられます。

 以前紹介した、「いのちのまつり・ヌチヌグスージ」という絵本の作者、草場一壽さんの言葉にも、

  時空を超えてつながっている「いのち」は目には見えません。
  それを支えてくれている「おかげさま」も目には見えません。
  見えないものを感じる力を育まなければ、
  なぜ「いのち」が大切なのかも感じられないと思うのです。

 とありました。この絵本は、先祖のお墓参りに来た子供が、先祖から受け継がれて来たいのちのつながりを、おばあちゃんから教えてもらうという話です。目には見えない多くのいのちに支えられ、恩恵を受けているのだということを子供達と一所に考えていける絵本です。

  「見えないものを感じる力」とは、いのちに対する想像力や、そのものの背景を感じる感覚であります。逆にいのちを粗末にしてしまうということは、この感覚が欠如しているのが原因だとも教えられます。しかし、いのちを粗末にしている現実の姿を見つめればこそ、いのちを大事に、大切にしなければならないこころも生まれて来ます。

 「作上がり」のこの時期、我が身の生活を振り返り、いのちをおろそかにしていないか、大事にしているのかを、もう一度点検してみたいと思います。   (貢 清春)

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