平成21年10月
生を奪う死は また 生きる意味を与える
私たちは日常生活の中で、「死」について深く考えることはないと思います。何故なら、「死」は悲しみであり、恐怖であり、苦しみであり、日常では考えたくない、遠ざけたい出来事だと思っているからです。仏教では、「生死一如」(生と死は一つである)と説かれています。どんな人間であろうと、生まれたからには死を免れることはできません。しかし、「生」と「死」は一つであると説かれているのに、私たちはそれを切り離し、「生」のみを考えて生活しているのではないでしょうか?
では、掲示板のことばにあるように、何故「死」は生きる意味を与えるのでしょうか?
最初に述べたように、「死」とは今の私たちの生活とは全く関係のないもののように感じていますが、実際は私たちの意に反して突然起こり得るものでもあります。そう考えた時、
「死の恐怖と同じくらい 生にたいして感動したことがあるだろうか」
という以前の掲示板の言葉を思い出しました。確かに、私たちは「死」は怖い、という思いがありますが、では、今の「生」に対してはどうでしょうか。当たり前、もしくは何も考えていないのではないでしょうか。また、生きている中で、人との出会いや出来事に感動することはあっても、私が今ここに生きているということ、多くのいのちによって私が存在し、支えられて生きているということに感動したことがあるでしょうか?
掲示板に書かれている「生きる意味」とは、夢や目標を持つ、やりがいを感じる等のことではなく、それも全て含めて、今、私がここに生きているということが、とても尊いものであると感じられることだと思います。「死」のない「生」はありません。とするならば、「死」と向き合うことは、そのまま「生」と向き合うことに他なりません。
いつ訪れるかわからないが、必ず訪れる「死」であるからこそ、今生きているということに感動できなければ、夢や目標、やりがいがあってもそこで終わってしまいます。そして、その感動は「死」と真向かいになることからおこるのでしょう。
(深草 教子)