人の間違いや 欠点をきびしく 見る眼で 自分が見れたら いいですね (野田風雪)
「自分に厳しく、他人に優しい」、その様な態度で他人と接し、自分を律することができれば、私たちが求める理想の人間関係が築けるのだと思います。きっと集団の中でリーダーシップが発揮できて、他者からも尊敬を集める人になるでしょう。しかし現実は今月の言葉のように、他人の間違いや欠点ばかりが目について、厳し態度をとってしまう事が多いように感じます。
私達の目は外へ向いています。その目から得た情報をもとに、自分が気に入るか気に入らないか、善いか悪いかを判断します。他人の行動や仕草、着ている服や髪型の善し悪しまで、ほんの一瞬「パッと見」で判断しています。また、他人が犯した間違いに対しても、自分のことはそっちのけで責任を追求し押しつけていきます。
その様な心を、寺本 温先生は法座の中で次の様にお話しをされます。「他人が茶碗を割った時は『茶碗ば(を)割ったね』と言うけども、自分が茶碗を割った時は『茶碗の(が)割れた』と言ってしまう。」自分が割った時には、さも自然に茶碗が割れたかの様に、自分には責任が無い様に言ってしまうけども、他人が割った時には「茶碗を割ったのはあなただ」と、割った責任を追及せずにはおれない心が沸き起こってきます。しかし自分が割った時には、「諸行無常、形ある物は必ず壊れるものだ」と、言い訳までして自分を正当化しようとします。
この事を心理学用語では「行為者・観察者バイアス」 (バイアスとは考え方の偏りの事)と呼ぶそうで、同じ行動や結果でも、他人の場合は原因を他人の性格や能力にあると考え、自分の場合は状況や運などの自分以外のものに原因があると考えてしまう、と説明されています。これは誰にでも起こる心の作用で、他人の間違いには厳しく、自分の失敗に甘いのは、心理学では自然な心の動きだと考えるそうです。この事からも分かる様に人間は、他者を見る目線で自分自身を見つめることや、客観的に我が身を見ることが出来ないのです。
その様にしか生きることが出来ない私達に対して、仏教はどの様にアプローチしてきたかというと、「自分の目では自分の姿を見ることが出来ないから、お経の教えの中に自分の姿を見なさい」と問いかけてきました。その事を中国の善導大師は「経教はこれを喩うるに鏡のごとし。しばしば読み、しばしば尋ぬれば、智慧を開発す」〔観無量寿経疏〕と説かれます。仏教の教えは喩えてみれば、鏡の様だというのです。毎日見る鏡は外側しか映し出しませんが、経教は私の内面をありのままに映し出す鏡の様なものなのです。お聖教をくり返し読み求めていくことによって、自身の迷いの姿が知らされ、間違いや欠点が知らされていくと教えられます。
今月の言葉で野田風雪師は、他者を厳しく見る眼で自分自身が見れたらいいですねと、私達にやさしい口調で呼びかけておられます。決して「自分を厳しく見なさい」という命令口調ではありません。自分自身にも言い聞かせておられる様な言葉です。それは、あなたも私も自分を正しく見つめることが出来ないという問題を抱えている仲間(同朋)なのだから、一緒に仏法を聞いていこうじゃないか。お経という鏡に自分を教えられながら、共に生きて行こうじゃないか。その様に、私達をあたたかく応援して下さる言葉としていただきました。 令和3年 5月 貢清春