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「もったいない」貧しく愚かで 力のないものが 最高の幸せに 包まれている その実感が 「もったいない」

「もったいない」
貧しく愚かで 力のないものが 最高の幸せに 包まれている その実感が 「もったいない」

 あなたにとって幸せとは何ですか?と問われたら何と答えられるでしょうか。健康であること、家族が幸せであること、お金が沢山あること、好きなものを腹一杯食べているとき・・・等々。年齢や性別、生まれた環境や国など、人それぞれに幸せと感じる感覚は違うと思います。いずれにしても自分に都合の良い条件が重なり、思い通りに物事が解決していくことで誰しもが幸せを感じていくものです。逆に自分の人生で何一つ自分の思い通りにならない、苦しみ悩みばかりの人生ならば自分は不幸だと感じます。幸福か不幸かは、自分の思いが満たされているか満たされていないかの違いによって変わるようです。しかし今月の言葉には「最高の幸せに、包まれている」とあります。これはどの様な事なのでしょうか。考えてみたいと思います。

 皆さんは「青い鳥」の話をご存じでしょうか。ベルギーの作家、メーテルリンク作の童話劇です。チルチルとミチルの2人が、幸福の青い鳥を探す旅に出る話です。様々な世界を探しても、幸せの青い鳥を見つけることができないのですが、夢から覚めて家の鳥かごを見てみると、飼っているハトが探していた青い鳥だったというお話しです。幸せは遠くに求めるものでは無く、本当はすぐそばにあるのだということを教えてくれる童話です。

 ところがこの童話の最後には思いもよらない展開が待っています。子供達が鳥にエサをあげようとして、青い鳥の取り合いを始めてしまうのです。すると青い鳥はその隙を見て飛び去ってしまいます。チルチルは最後に「僕たちが幸せに暮らすためには、あの青い鳥が必要なのです」という、悲しいセリフで話が終わっていきます。

 一度つかんだ幸せ(青い鳥)に心奪われて、本当の幸せをイメージできなくなってしまう人の姿を表現してある様に思われます。私たちは幸せの条件を用意し、その条件にかなう生活ならば幸せ、条件がそろわなければ不幸だと考えてしまいます。今自分に無い幸せをくっつけて助かろうとするのなら、この物語のエンディングの様に幸せの奪い合いが起こり、幸せはその場から消えてなくなってしまいます。

 今月の言葉の「最高の幸せに、包まれている」という言葉は、私たちが追い求めて獲得する幸せではなく、気が付く気が付かない以前に、本来幸せの中に自分がいたのだという喜びを表現してあるのだと思います。親鸞聖人は、自分自身を包み込み、私を見捨てないはたらきを、阿弥陀のはたらきとしていただかれました。真宗の本尊である阿弥陀如来は「摂取不捨」という大慈悲の誓いを建てられた仏様です。その慈悲心は、どの様な環境に身を置いていている人にも無条件にはたらく光です。社会的な能力も経歴も関係なく、念仏するこの身のままで阿弥陀の浄土へ往生させ、仏と成らしめ救い遂げようとはたらいて下さっています。私を決して見捨てることのない、阿弥陀のお心の中に存在していた事の幸せを、聖人はお念仏のひびきとしていただいておられたのです。

 その阿弥陀のはたらきを実感した時、今まで気が付かずに「もったいないことをしていた」という懺悔と、「もったいなくも頂戴していた、かたじけなくも有り難い」という感謝の思いが今月の言葉に表現してあるのだと思います。そしてもう1つ、人生に於ける最高の幸せ、阿弥陀のはたらきに気付いて欲しいという願いがあるようにも感じます。

 人間誰しも、幸せを追い求めて生きています。しかし求め方が間違っている為に、何が本当の幸せなのかが分からないで生きているのかも知れません。「僕たちはすでに幸せに包まれていました、だから青い鳥は必要ではありません」このセリフを私は胸を張って言えるだろうか。 平成30年5月 貢清春

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