死 それは 生を脅かす 暗い影なのか
それとも 生を純化する 透明な光なのか
「直葬」(ちょくそう・じきそう)という言葉をよく耳にします。病院で亡くなられた方を、家には連れて帰らずに直接火葬場へ送るという葬儀の形です。家族や身内のみでのお別れとなり、住んでいた地域の人には知られることも無く、半ばひっそりと式が執り行われます。お葬式という場が開かれない為に、生前に縁のあった人達にとっては最後のお別れも出来ません。都会では1~2割が直葬だそうですが、今後、田舎でもこういう形のお別れが多くなれば、日常の場からお葬式という儀式も姿を消していき、「死」を身近に感じる場が少なくなるのではないでしょうか。
福浄寺で執り行われる葬儀では、もちろん高齢の方が多いですが、若い方の突然の死も時折ご縁があります。そのどのような葬儀の場でも、家族の方は死を悼み別れを悲しみ、沢山の方々が涙を流しながらお見送りをされます。
近年、弔辞としてお孫さんのお別れの言葉を読まれる時があります。自分を育ててくれた事のお礼や、生活の中での思い出話。叱られた事や応援してくれたこと、その人の存在に対しての感謝が綴られます。生きている時には言えなかった言葉が不思議にも、亡くなってから初めて言うことが出来ます。そして亡き人の存在が、より一層大きくなっていくものです。
死は会いたくないご縁ではありますが、愛する者と死別した人達にとってはその人との出会いを深め、自分の生き方が大きく問われるご縁でもあります。
お葬式は、亡くなった人をご縁として、無常を感じ、自分自身が「生きる」「生きている」事実を感じる仏教の行事です。平穏に日常を生きる私達は、生きることに慣れてしまい、『生かされている』ことを考えること無く、当たり前の様に生活しています。しかし「死」という非日常的な出来事に遇うと、日常とは変わった目線でものを考えるようになります。当たり前が、当たり前で無かったといただけることもあります。もっと日頃の出会いを大事にしなければならない、と思うこともあります。
つまり、「死」を考えるということは、今の「生」と向き合うことと繋がっているのです。それは今月の言葉の「生を純化する、透明な光」が表しているのではないでしょうか。純化ということは、濁りが除かれるということです。日常で濁らされた眼が「死」という光に照らされて、本来のあるべきいのちの姿を見せられていく、そういうはたらきがあるのでしょう。
無縁社会が拡大していけば、益々「直葬」が増えていくと思われます。「死」を身近に感じる場が少なくなり、より一層「死」は暗さを増し、自分には全く関係ない遠い未来のこと、となってしまうでしょう。皆で死を悲み、涙を流せる「葬儀」という場が昔あったと、未来の歴史教科書に載らないように願います。 貢清春