平成21年4月
過去無量のいのちのバトンを受けついで
いまここに自分の番を生きている (相田 みつを)
私という存在は、両親無しでは存在しない。その両親も、両親無しでは存在していない。その又両親も、両親無しでは存在していない…… というように過去をさかのぼれば、この私という存在に至るまで数え切れないほどのいのちの連続がある。
そんな連続の中で、私が目で見て、言葉を交わすなど、直接に関わる人はほんのわずかである。百年前、二百年前の人となると言葉を交わしたり、直接目で見るということもない。資料として残されている、絵や写真、文章などの物を通してしか知ることは出来ない。
しかし、その人を知る人や、その人について知っている人から、“昔話し”という形で話を聞くと、なんとなくその人の熱を感じる。
たとえ、口で伝えられるという存在でも、その人についての話を聞く中で、その人の生き方、苦労や思っていたこと、考えていたこと、そして願っていたことを知った時、なぜか、“ありがとう”という思いが込み上げ、頭が下がるおもいである。その瞬間、なにか身体を揺り動かすようなジーンとしたものが湧いてくる。
自分にとって、直接関係していないと思っていた人が、実は自分の中にその人も生ききったいのちが生きていると感じた時、はじめて自分は一人ではない、たくさんのいのちのリレーによって、今こうして支えられ、生きている。
そして、そのいのちを生きるという中で、私という存在は、一体どういう願いを受けつぎ、どのようにその願いというものを見出し、その願いに応えていくのかが、私という身に生をうけ、いのちを与えられているということの大きな意味、また、宿題としてあるように感じる。その宿題という課題が、いのちのバトンという言葉で表されているメッセージなのではないかと思う。
(立白法友筆)