平和のために 何をしたらよいか
君自身が 平和の人と なり給へ (毎田周一)
毎田周一さんは1906年に生まれ、1967年に亡くなられた、昭和の仏教思想家です。四高在学中から暁烏敏に師事され、京都帝大で西田幾多郎に学ばれています。浄土真宗とも深い関係をもたれていたことがうかがえます。
8月に私たちは、広島、長崎への原爆投下の日である6日、9日、そして終戦の日8月15日をむかえます。平和を願う式典や行事が毎年各地で行われています。しかし、最近の日本は、自衛隊を軍隊として憲法9条に付け加える案が出て、いつでもどこでも戦争ができる国にする「集団的自衛権」を国会で強行採決しました。平和の実現のために武器を持って外に出かけることができるようになりました。
「我が国は他国に侵略などしない。でも世界には悪い国もある。その悪い国の軍隊が攻めてきたときのために、あるいは攻めてくるまえに叩き潰す。だから、我が国は軍隊を常備する。兵器を所有する。」
抑止力。これこそ「平和の実現のために軍隊を持つ」という世界が抱えている矛盾の根っこにあるものです。どの国も「自衛のための軍隊」として武器を持っています。ですが、ここではっきりさせなければならないことがあります。自分を守ろうという自衛の意識はいくらでも肥大化します。そして解釈次第で、戦争も正義になりうるのです。そのことは歴史が証明しています。
かつて日本が戦争の大義にしたのは、欧米列強からのアジアの解放でした。ナチスドイツによるポーランドへの侵攻は祖国防衛が名目。ブッシュ政権のイラク侵攻も、大量破壊兵器を持つテロリストから世界の平和を守ることでした。人は自衛を大義にしながら人を殺すことができるのです。武器を持っていると誤った防衛になることも起こってきます。そのことを私たち日本人は、身をもって痛感したのです。だから武器を棄てましょうと、日本は72年前に日本国憲法第9条として決意しました。
毎田周一さんの「君自身が 平和の人と なり給へ」という言葉は、ご自身も戦争の悲惨さを経験され、「なぜ平和を願いながら、人々は戦争を繰り返すのか」と問うなかで紡ぎだされたものでしょう。平和のために、まず私がしなければならないことは、さまざまな論理や正義によって戦い、殺しあうことを正当化し、口実にする「私」を見つめることです。
今日、地球上では、さまざまな論理や正義によって戦いあい、殺しあう人間同士の闘争が続いています。長い歴史の中で育てられてきた人間心理は、簡単に乗り越えられないようですが、それを乗り越えなければ、私たちはこの足下の大地に、いつまでも人間によって殺された死者の白い骨を埋めなければなりません。
張 偉(チャン ウェイ)著『海を越えて響くお念仏』 深草誓弥 平成30年8月