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恥ずかしいと 思うことが 少なくなってゆく それが 私には 恥ずかしい

恥ずかしいと 思うことが 少なくなってゆく それが 私には 恥ずかしい
 
 もう20年ほど前だったでしょうか、JRで移動中の出来事です。乗車してきた女子高生が数人、ドアから入ってきたと思うと電車内の通路にべたっと座り込み、周りの目を気にすること無く大きな声でしゃべり出しました。初めて見たその光景に「これが、ジベタリアン(地べたに座り込む人達)か」と驚いた事がありました。若者が所構わず地べたに座り込むのが邪魔で迷惑だとは話では聞いていましたが、実際に目の当たりにすると驚きと同時に恥ずかしさを覚えました。

 「オバタリアン」という言葉も以前流行しましたが、公衆におけるマナーとかルールよりも、自分達の楽や都合を第一に考えているのは一部のオバサンだけではありません。そのあつかましさはどんどん低年齢化している様にも感じられます。日本では昔から「恥を基調とする文化」を大事にし、人前で恥をかかないために控えめに振る舞うことが「美」とされてきました。しかしこの感覚は、もう既に古い考え方になったのかもしれません。そう思うと、これから日本はどうなってしまうのだろうか、どこに向かって行こうとしているのだろうかと考えさせられます。今月の言葉の様に「恥ずかしいと思うことが少なくなっていく」ことに何か危うさを感じます。

 『涅槃経』というお経の言葉が、『教行信証』信巻(真宗聖典P257)に引用してあります。

〔本文〕 「慙」(ざん)は自ら罪を作らず、「愧」(き)は他を教えて作さしめず。「慙」は内に自ら羞恥す、「愧」は発露して人に向かう。「慙」は人に羞ず、「愧」は天に羞ず。これを「慙愧」と名づく。

〔意訳〕 「慙」とは自分から罪を作らない様にするということ、「愧」とは他人に罪をつくらせないこと。「慙」は自分の内面に向かって恥ずかしいと思い、「愧」は恥ずかしいことをして申し訳ないと他人に向かってわびること。「慙」は他人に対して恥ずかしさを感じ、「愧」は天に対して恥ずかしいと感じること。これを「慙愧」というのです。

 このお経の言葉は、阿闍世に対し耆婆(ぎば)という大臣が教え諭していく場面での言葉です。父を殺害した事を後悔し、大きな苦悩を抱えた阿闍世は、大変な病気にかかってしまいます。耆婆以外の大臣は「父を殺したことなど気にすることはない、あなたに責任は無い、憂い悩む必要は無い」などと気休めを言うのですが、耆婆大臣だけは違いました。あなたが病気になって苦しんでいるのは慙愧の心があるからだというのです。取り返しのつかないことをしてしまった事を後悔し、「恥ずかしい」と感じる心が慙愧の心であります。その慙愧の心が生じたあなただからこそ、どうか仏陀の真実の法に出会ってほしい、と耆婆大臣は阿闍世に伝えるのです。犯した罪を責任転嫁したり、忘れたりすることで本当に救われるということは決してないのです。そして『涅槃経』には次の言葉が続きます。

〔本文〕 「無慙愧」は名づけて人とせず。名づけて「畜生」とす。

〔意訳〕 「慙愧」の無い者は人とはいわないのです。その様な者は「畜生」というのです。

 慙愧が無ければ人とはいわない、畜生であるという言葉は大変重たい言葉です。畜生とは恥ずかしさを感じることの無い生き方をし、仏法に反応する感覚の無い存在です。阿闍世の様に自分の行いに痛みや、恥ずかしさを感じることは、「人」としての大事な感覚であり、それは仏陀の教えを聞いて救われていく「人」であることを証明しているのだと思います。

 人間関係が希薄になっていく現代の中で、周囲からどの様に見られているのかという目線があっても、「私達の勝手でしょ」と吐き捨て、「そんなの関係ない」と他者との関係を切り捨てて生きているのかもしれません。恥ずかしいと思う心が人間性を保つ一つの鍵になっている様に感じます。 令和3年 9月 貢清春

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