自分の「安心・安全」を守るために 危ないものは徹底排除する
-コロナ・戦争の現実から見えてきた私-
2020年にコロナウイルスが日本に入ってきて、同4月7日に東京、神奈川、埼玉、千葉、大阪、兵庫、福岡の都道府県に緊急事態宣言が出て、4月16日には全国が対象になりました。それから3回緊急事態宣言が出されますが、去年の令和5年5月8日に五類感染症になり、行政が様々な要請、関与する仕組みから個人の自主的な取り組みをベースにした対応になり、現在を迎えています。
実は坊守がつい最近コロナになりました。発熱し、咳をしていたので、風邪だと思い、嫌がっていましたが、病院に連れていきました。コロナの検査を病院ですると陽性ということで驚きました。その時私の頭の中にとっさに浮かんだのは、次の日からよそのお寺にお話にいく予定にしていたものですから、自分に感染していないだろうか?という、本当に身勝手な、自己中心的な思いでした。その後も浮かんでくるのは、坊守の心配よりも、自分が感染しないだろうか、子どもたちのお世話も大変だとか、自分のことばかりが頭をよぎっていたのです。帰り道は車の窓を開けるという行動もしました。本当に恥ずかしいですがこれが私の正体だったのです。
どんな大きな問題でも、その自分のところで答えなければならない。問題というのは何でも特殊的であり、ある意味ではニュースペーパー的である。問題は特殊的だが、答えは原理的に答えねばならない。(中略)特殊な問題ということは、それが外ということ、原理的に答えるとは内をあらわす。外を縁として内(自己)を明らかにする。
(安田理深選集15巻下、20頁)
問題とは大きな問題もあれば身近な問題もあります。コロナ、環境破壊、戦争、公害など大きな問題もあれば、家族とのゆきちがい、仏事の問題など、自分と関係ない問題はないのです。大きな問題は、どうしても自分と関係ないと思いがちですが、私の問題なのです。どんな問題も人間が、わたしが引き起こした問題であったり、そうでなくても、必ず関わりがある問題です。一つの問題には必ず背景があり、法則があります。さらに根源的な因があります。ですから安田先生がいわれるように、「外を縁として内(自己)を明らかにする」、外の問題を縁として内の自分自身が問われているのだと思います。
新型コロナウイルスが、人間に感染し、多くの人が亡くなりました。「コロナ禍」と呼ばれ、コロナは「わざわい」として扱われるようになりました。しかし、このわざわいは、誰がもたらしたものでしょうか。病の苦しみだけにとどまらず、コロナウイルス感染者に対する攻撃や差別は想像を超えたものでした。自分に危険が迫ってくると人は攻撃的になります。その問題が遠いときは「差別してはいけない」、「人を攻撃してはいけない」と言えますが、自分の身近に問題が迫ると、私がそうだったように、途端に変わってしまいます。自分を守るために危険なものは徹底排除する心が動いてきます。
「安心・安全」という言葉が、いつの間にか多用されていますが、自分の「安心・安全」を守りたいという心と、自分の「安心・安全」を脅かすものを排除しようとする心があります。自分たちの仲間に入れたくない人を「ばい菌」扱いするいじめがあります。ナチスは、「ユダヤ人は劣等民族だから穢れている」と差別し、虐殺しました。本当の意味での「安心・安全」という世界が明らかにならないまま、個人的、あるいは国家の中だけなど限定のある「安心・安全」を求めるならば、それを脅かすものは徹底排除、つまり戦争を正当化する論理に簡単にすり替わります。「安心・安全」という言葉には、よくよく注意をすべきだと思うのです。
来年被爆、敗戦80年を迎えます。この戦争は当時の人たちの責任だということだけでは済まされません。戦争を非難することも大切なことですが、戦争を引き起こすような心が、戦争を支持するような心が私の中に絶対ないとはいえないのです。「コロナ・戦争の現実から見えてきた私」と掲示板の言葉にありますが、あらゆる問題を縁として内の自分自身が問われているのです。「仰ぐべきものを見失った時代」といわれる現代だからこそ、人間の本質を明らかにする教えを聞かなければなりません。 令和6年 7月 深草誓弥