当てが外れた不満の中に見えてきた 当てにしていた 当てにならない私 (仏光寺)
私たち人間は、今、ここに、それぞれ誕生して、生きています。誕生、生まれるということは、誰の場合でも必ず、いのちが与えられることです。具体的には、この私の身と、この身が生きていく世界が与えられることです。
しかし、いつのころからでしょうか。その与えられたいのちを、我がいのちとして握りしめて生きていきます。私が私のいのちのあるじであるかのようにふるまい、さらには私が生きていく世界も自分の世界と勘違いをして生きています。仏教ではそのような私たちの「我」の意識を、常(じょう)【=いつでも】、一(いつ)【=一貫して】、主(しゅ)【=あるじ】、宰(さい)【=支配しようとする】する意識であると教えています。
掲示板の言葉に示されていますが、私もまわりの人や環境に「こうなってほしい」とか「こうでないといけない」というような「当て」をもって生活しています。しかし、多くの場合、その「当て」、期待は外れたり、裏切られます。すると次に出てくるのは「なんで」という不満です。「なんで私の思うようにならないのか」と外に不満の原因があるように思いをなしてしまいます。
仏教は「その当てにしているあなたが当てにならないのでないか」と教えています。先ほど挙げましたが、我の意識こそが問題なのです。たとえば、今向き合っているパソコンも「自分が買ったパソコン」、「自分の所有物のパソコン」だと思っています。自分が働いて手に入れたものは自分のものだと思っています。
では、「その自分は誰のものか?」と問われたら、どうこたえられるでしょうか。「もちろん、自分は自分のものだ」とこたえるでしょう。ではさらに問います。「では、何時、どのようにして、あなたはその自分を手に入れたのですか?」ここまで問うとこたえに困ってしまうのではないでしょうか。無疑問的に「自分」を握りしめ、目の前に広がっている世界すらも自分の所有物のように振舞っていますが、まさに「当てにならない私」だとしかいいようがありません。
思うように事が進んでいるときは、問題になりませんが、思いがけないことが起こると「当てが外れた」ということになります。まず大切な事は、「当てにしていた」自分がいることを知ることではないでしょうか。そして、問題が起きたり、困ったことがあると途端に「どうにかならないものか」と外の世界を変えようと反応するのですが、そこにはなんでも自分の気に入るように世界を変えられると勘違いしている自分がいることにも気付かされます。世界を自分の気に入るように変えるということはできないでしょう。そしてもっと言えば自分も自分の気に入るように変えることはできません。まさに掲示板の言葉にあるように「当てにならない私」です。
思うようにいかないことにであっても、「当てが外れた」と絶望するのでなく、「当てにならない私」を当てにしていた自分に目覚める機縁ではないか、と教える言葉だと思います。 深草誓弥 平成31年2月