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仏教には時代の要求に応えるべき面と時代に要求すべき事があるはずです (豊島学由)

 お経の中で阿弥陀如来がお出ましになる時、観音菩薩と勢至菩薩が脇侍として出現される場面が数多くあります。この姿は「弥陀三尊」と言われ、観音菩薩、勢至菩薩が中央ご本尊の阿弥陀如来の両脇に控え、両菩薩が中尊の補佐をする役目を担っています。観音菩薩は阿弥陀如来の「慈悲」の徳をあらわす化身とされ、勢至菩薩は「智慧」の徳をあらわす化身とされます。化身というのは生まれ変わりという事では無く、お姿としてはたらき出た身体、という意味です。

 観音菩薩として表現される「慈悲」とは「抜苦与楽」という内容を持ち、衆生の様々な苦を抜き、楽を与えるはたらきがあります。勢至菩薩として表現される「智恵」とは、大きな願いの光でこの世を照らし、我々の無明の闇を破るというはたらきがあります。この二つ「慈悲と智慧、観音と勢至」が阿弥陀如来の徳を表現しています。補足ですが弥陀一仏を本尊とする真宗門徒は、脇に控える観音菩薩のみ、勢至菩薩のみを信仰することはありません。根本の阿弥陀如来をご本尊として礼拝の対象とします。

 しかしこの二菩薩の中で、日本人に親しまれている菩薩様は観音菩薩の方ではないでしょうか。歴史を振り返ると、戦争で国が乱れたときや、自然災害で大変な時代には、貴族も民衆もこぞって観音菩薩を信仰しました。何故かというと、正式名称の観世音菩薩は「世の音を観じる菩薩」様であるからです。人間から発せられる苦しみの声や、災難に襲われたときのうめき声、助けてほしい、助かってほしいという様々な世の音を聞き届けてくださる菩薩様だからです。苦難の時代を生きる衆生の声に、真摯に耳を傾け声を聞いてきた観音菩薩の慈悲の姿は、時代の要求に応えてきた面があるのではないでしょうか。そして、今まで全く縁の無い人たちに仏教との接点を持つきっかけを作って下さったのは、観音菩薩のお仕事なのかもしれません。

 しかし仏教は、人間の要求だけに応えてくださる宗教ではありません。その一面だけだと、自分の願い事を叶えるだけの、人間にとって都合のよい宗教になってしまいます。もし願いが叶えられたならば、もし苦しみが無くなったならば必要とされないものになります。逆に仏教は時代に対して、私達に対して要求すべき事があるのです。それが、勢至菩薩を象徴する智慧の姿としてはたらきかけているのだと思います。智慧とは「おばあちゃんの知恵袋」の様な、生活の中の賢い知恵、人生経験で得た人間の知恵知識という事ではありません。仏が覚られた道理、真理を表現します。その教えによって人間の目では見ることの出来ない自分の内なる姿を知り、心の闇を照らし破って下さいます。迷いの姿を知らせ、生きることの本当の意味と目的が明らかとなり、正しい道へと導いてくださいます。その仏の智慧に育てられて生きて行きなさいと、私たちに求められているのです。

 知恵知識を蓄え経験を積んでいく事は、生きていく中でとても大事な事です。人間の賢さは生活を支えてくれますが、気が付けば自分が賢くなった分だけ他人を見下す様な態度で接してしまいます。偉くなった気分になり、頭が上がってしまいます。仏の智慧をいただくと、逆に頭が下がる人に成ると聞き習いました。私の愚かさ、生きる事の悲しさ、罪業の深さに気づかされると、ふんぞり返ってはいられません。仏から私に要求され願われている事は何なのか、もう一度確かめてみなければなりません。 令和2年 7月 貢清春

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