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はやく咲いてほしい ながく咲いてほしい 私のおもいにかかわらず 花は咲き 花は散る

はやく咲いてほしい ながく咲いてほしい 
  私のおもいにかかわらず 花は咲き 花は散る

 四月の掲示板の言葉です。今年は桜の開花が例年より一週間ほど遅く、しばらく私も「まだ咲いてないな」と思っていましたが、ようやく花が満開になっている桜の木をみつけて、おもわず車を止めて見入ってしまいました。温暖な春の訪れを感じさせる桜の花です。花を待つと同時に早く春になってほしいというような心持でもあるようです。しかし、その満開になったあと、何日か雨が続き、風の強い日もありました。せっかく心待ちにしていた花が、雨風で散ってしまいました。「晴れた日に、子どもとお花見でも」と思っていましたが、私の思いは見事に裏切られました。

 日本全国、あちこちでお花見を楽しみにしている人がいるでしょうが、なぜ、これだけたくさんの人が桜の花に心惹かれるのでしょうか。一つは春の訪れを感じさせるからでしょう。もう一つは「はかなさ」ではないでしょうか。桜の花は、たとえ雨風にあたらなくても、十日ほどで散ってしまいます。はかないからこそ、桜の花が咲くことを心待ちにし、咲いた花を見つめる時を大切にするのでしょう。一ヶ月も二ヶ月も咲く花ならば、ここまで人の心をとらえたりしないのではないかと思います。咲いてはかなく散っていく桜であればこそ、私たちは自分の人生の相を照らし合わせるようにしてきました。

 仏教ではこの「はかなさ」を無常と教えています。無常とは、生あるものが死するから無常というだけはなく、例えば傍にいて都合のいい人でも、いつでもそうだとは限らないわけです。時には都合の悪い人になることもあります。車をもっていることは楽で便利なことですが、車があるために困ることもたくさんあります。人間関係、状況、物質、その時その時の条件で移り変わるから無常であり、有限であるといくことを教えます。突き詰めると「あらゆるものは移り変わる」ということを教える言葉です。大切なことは、「あらゆるものは移り変わる」と教える無常ということは、どれだけ世界や私の思いが移り変わっても、移り変わりません。「あらゆるものは移り変わる」ということは永遠にかわらない真理であり事実です。疑いようのない確かさをもっています。

 私たちが桜の花の「はかなさ」に心を惹かれるのは、自分も同じように、「私のおもいにかかわらず 花は咲き 花は散る」いのちを生きているからであると思います。花も自分も移り変わるいのちを生きている。だからこそ、移り変わらないものに出遇いたいという欲求を私たちはもっていると思います。イギリスの経済学者シュマッハーは「人間が必要とするものは無限であり、その無限性は精神的領域においてのみ達成でき、物質的領域では決して達成できない」としるしています。私たちの内にある「移り変わらないもの」、無限への要求は、お金や、物など移り変わる有限な物では満たされることはありません。花が咲き散る事実に、自分の思いを入れれば「はやく」、「ながく」ということが出てきます。

 私自身、今年咲き散る桜の花を見て、仏教に教えられている「あらゆるものは移り変わる」、無常という真理の言葉が改めてリアリティをもって感ぜられました。そして私たちがもとめているのは「移り変わらないもの」であるという思いを新たにしました。   深草誓弥  平成29年4月

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