平成20年7月
罪の身を 蚊にも食わせぬ 凡夫かな (句仏)
句仏上人(下記参照)が御聖教を開きながら、親鸞聖人のお言葉にじっと耳を傾け、我が身の罪業の深さに頷いておられました。その時、「プ--ン」・・・どこからとなく蚊の鳴き声。「パチン」・・・瞬時に、いとも簡単に殺生してしまった。7月の掲示板の言葉は、その情景と懺悔のこころが巧妙に表現されています。
蚊をたたく(殺す)という行為は、この夏の時期になりますと日常的に行うことでしょうし、蚊に逃げられたら執拗に、どこまでも追いかけてゆく様な根性をもっています。よくよく考えてみますと、「人間の身近な所で(目に見えて)人の手によって殺される虫」ランキングNo.1は「蚊」ではないでしょうか。(No.2はゴキブリ?)そう考えてみますと蚊やゴキブリは、殺されて良い昆虫の代名詞にもなっています。逆に、人間に大事にされる昆虫のカブトムシやクワガタ等はデパートでは高値で取引されるという現実があります。
生活の現場や道徳教育の中で、全ての命の尊さや平等さは教えられてきました。しかし実際は殺されてもしかたがない命と、殺してはならない命を自分の物差しで分別し、都合が良ければ可愛がり、都合が悪ければ排除してゆく。殺されて良い命など一つもありはしないのに「悪は殺して当然」、そういう我が思いを見つめ直したことがあったでしょうか。
仏教において守らなければならない、道徳規範や規則の事を「戒律」といいます。その一番目には不殺生戒(ふせっしょうかい)生き物を殺してはいけない、という戒律があります。これは在家の者も出家の者も、この戒律を守ることが仏道の出発点となります。しかしこの不殺生戒を徹底して守ってゆくことは難しいことです。肉や魚を食べないことだけが不殺生戒ならばできることかもしれませんが、仏教は山川草木にもいのちを見てゆきますから野菜を食べても戒を破ることになります。どうして守ることの難しいこの戒律が1番目にあるのでしょうか。
榎本栄一さんの詩「罪悪深重」という詩があります。
私はこんにちまで
海の 大地の
無数の生きものを食べてきた
私のつみのふかさは
底しれず 「詩集 煩悩林」
生あるものを殺すなという戒律があることによって、命を殺していた、食べてきたという自分の姿が知らされ、大きな悩み苦しみが湧き出てきます。そこには罪を犯しながらしか生きてゆけない、「申し訳ない自分」という者を発見してゆく事と同時に、そういう私を救おうという仏の慈悲が感じられ「ありがたい身」を生きてゆけるのでしょう。
今度「蚊」に出会ったら、叩くか叩かないかは問いません。「罪の身を・・・」の言葉を思い出しながら、凡夫の自分に出会ってみましょう。
(貢清春筆)
*句仏上人
本名大谷光演(おおたに こうえん)は、明治から大正時代にかけての浄土真宗大谷派の僧。法名は「彰如」(しょうにょ)。東本願寺第二十三代法主。 「句を以って仏徳を讃嘆す」の意、として親しまれる。