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いくら健康が大事だといって 人は健康のために生きているわけではない (医師 中村仁一) 病気にならず長生きをして何をしたいのでしょう?

いくら健康が大事だといって
人は健康のために生きているわけではない (医師 中村仁一)
病気にならず長生きをして何をしたいのでしょう?

 今月の掲示板は医師の中村仁一さんの言葉が選ばれています。中村さんは医師の立場であられながら、医師による延命治療の拒否を訴えられておられた人です。

 「健康で長生きが一番」という声はよく耳にします。私もできることなら、息子たちが大きくなるまでは、それなりに健康でいたいな、と思います。しかし、健康で長生きしておりたいと、どれだけ努力してもそれを飲み込むように病におかされることもあるでしょう。掲示板の言葉の「人は健康のために生きているわけではない」といわれる言葉は、突き詰めると「人は何のために生きているのか」という問いかけであると思います。

 精神科医として多くの人たちの死を看取ってこられたキューブラ―・ロスさんは、死を前にした一人のアメリカ人の言葉を紹介されていました。「私はいい生活はしてきたけれど、本当に生きたことがありません」この言葉は、死を他人事としてとらえる立場ではなく、自ら死と直面するなかで、人生そのもの、生きてあること全体が問題になったことを示していると思います。

 「いい生活」とは、それこそ私たちが日ごろ思い描くような、健康で、経済的にも恵まれ、温かい家族に囲まれているというような「いい生活」でしょう。しかし、「本当に生きたことがありません」という言葉には、その生活全体がどこに向かって生きているのか、本当に生きたという満足はどこにあるのか、という問題提起が含まれています。健康であろうとすることを決して否定するつもりはありません。しかし、「病気にならず長生きをして何をしたいのでしょう?」とあるように、「何をなすべきか」、「どこにむかっているのか」という問いに対して、「健康」という応答では行き詰まってしまいます。

 親鸞聖人の言葉をしるした『歎異抄』という書物があります。その第二条には次のようなことが記されています。自分たちでは解決のできない問題を抱えた関東の弟子たちが、晩年を京都で過ごされた親鸞聖人のもとを訪ねます。その弟子たちに親鸞聖人は「ひとえに往生極楽の道をといきかんがためなり」と声をかけています。はじめに、「あなたたちには願いがあるでしょう」と声をかけるのです。私も教えてもらったことですが、「ひとえに」ということは「ただこのことひとつ」ということをあらわします。親鸞聖人は「ひとえに往生極楽の道をといきかん」、「このことが皆さんの心からの願いでしょう」と問題の根本を押さえておられるのです。

 「往はゆくということですね。生はいきる、うまれるということですね。ですから往生というのは、本当の人間生活ということでしょう。」この言葉は曽我量深先生の言葉だったと記憶していますが、往生浄土、往生極楽というところに本当の人間生活が営まれるのだということを教えられているのだと思っています。健康であっても、病気になっても、南無阿弥陀仏とお念仏を申して、念ずる仏の呼びかけを聞いていくこと。年末に近づき、幼いころから目の当たりにしてきた、お寺に聴聞に来られていた、お同行のすがたが尊いものとして浮かんできます。 令和3年 12月 深草誓弥

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