ロゴ:福浄寺

トップイメージ1 トップイメージ2 トップイメージ3

自分が生きているということが本当に言える場合とは 足がちゃんと地面についているという場合でしょう (西谷啓治『宗教と非宗教の間』)

自分が生きているということが本当に言える場合とは
 足がちゃんと地面についているという場合でしょう
    (西谷啓治『宗教と非宗教の間』)

 「幽霊を見たことがありますか?」
 以前、御門徒さんから訪ねられた事がありました。僧侶という存在は霊的な感覚があると思われたのか、その様なことに詳しいのだろうと考えられたのかもしれませんが、私は幽霊を見たことはありません。科学や文明が発展した現代でもお盆の頃になると、心霊現象や怪奇現象を取り上げる番組が放送されますし、私が小さい頃は心霊写真や稲川淳二の怪談話しなどが、茶の間を賑わせていた時代もありましたがいかがなものでしょう。皆さんは幽霊を見たことがあるでしょうか。以前寺の法要に来られた講師の先生が、幽霊の姿の特徴を教えて下さったことがありました。

 それは、①後ろ髪が長い、②両手を前に伸ばし垂れ下がっている、③腰から下が消えて足が無い、この3点が幽霊の特徴であります。

 「後ろ髪が長い」ということは、過去を引きずって執着しているという姿を表現しています。「後ろ髪を引かれる思い」という言葉がありますが、過去の未練が残って思い切れない事をたとえる時にこの言葉を使います。ああしておけば良かったのに、あれはしない方が良かったのかもと愚痴を言いながら、取り返しが付かないことをいつまでも後悔して生きている姿を、長い髪の毛にたとえます。

 「両手を前に伸ばし垂れ下がっている」ということは、未来に対する不安から、あれこれと心配して苦しんでいる姿です。これからの子ども達はきちんと育っていくのだろうか、自分が病気したら家族はどうなってしまうんだろうか、私達が年をとった時に年金はもらえるのだろうか・・・等々。そういう未来が不安で希望が無い為に、弱々しく両手が垂れ下がっているのでしょう。

 その様な悩みや不安をかかえる幽霊は「腰から下が消えて足が無い」のです。それは現在ただ今「地に足がついていない」ということです。これは過去を悔やみ、未来に望みが無いため、現在ただ今の事実を見失っているということです。その様に生きて行く居場所が無い幽霊は、「うらめしや」と恨みつらみ憎しみからいつまでも解放されず、怖い顔をして周囲を呪っているのです。もう既にお分かりだと思いますが、幽霊とは私達の生きる姿そのものです。依って立つ場所を知らない私の姿を先達の方々は「幽霊」という恐ろしい姿で伝えようとされたのかもしれません。

 「過去」と「未来」は、現在の私の力ではどうすることも出来ない、変えることが出来ないものです。そして思いもよらないことや、思いに反することが多々起こって来るのが人生です。世間から切り捨てられ必要とされず、自分を捨てたくなる様な状況に出会うこともあります。その様な思いを超えて、私達に決して見捨てること無く、生きる勇気と力を与えようとする阿弥陀の本願こそ、本当の依り所であり立脚地であります。阿弥陀如来はどの様な境遇にある者も、えらばず、きらわず、みすてずに救う仏であります。その本願のみ教えを聴聞するということは、どの様な人生であっても、どの様なことが待ち受けていても、現在ただ今のここから立ち上がっていける智慧をいただくことなのです。

 今月の言葉の「足が地面につく」とは、阿弥陀の本願を私の根拠として生きていく、ということを表現しているのだと思います。依って立つ阿弥陀の大地があるからこそ、目の前の一瞬一瞬の出来事に力を尽くして生きていける。お念仏は唯一の道として伝えられ、今を生きる私達に呼びかけられているのです。 令和3年 2月 貢清春

関連リンク