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ここに居て 喜べず ずい分よそを捜したが ここをはなれて 喜びは どこにもなかった 浅田正作

ここに居て 喜べず

ずい分 よそを捜したが

ここをはなれて 喜びは どこにもなかった          浅田 正作

  

 今月の掲示板の言葉は、私たちが「ここ」という、依って立つ場に、世界に、私がどのように関わっているかを問いかける言葉です。

 私たちは当たり前のように、「私は今ここで生きている」と思っています。そして自分の思い通りになることを空想して「ここ」だといっています。もしその「ここ」が自分の思いにそぐわない場所であったり、「ここ」に思いもしないことがおこってくると、途端にそこは「ここ」でなくなります。自分の思いのあてが外れるのです。

 「自分はこんなところにいるべきものではない」と、現実に無関心になったり、自分を不快な目にあわせる人と「ここ」に一緒に居ることに耐えられず、攻撃的に他者を排除しようとします。

 「ここに居て 喜べず ずい分 よそを捜したが」という言葉は、自分の思いを通して「ここ」を傍から眺め、品定めをして、「喜べず」、「よそ」に自分の思いを満たしてくれる場所を探している姿を教えているのです。あるがままに満たされず、その「悪し」とするここに居る私に背中を向け、より「善き」自己の実現を、未来のどこかに求め、さまよう、自分の思いに固執する者です。

 『大無量寿経』では、「ここ」を自分の都合のいいように変えなければ、「喜び」はない、と自分の思いが満たされることを求めるものを「国王」と名付けています。

 しかし、国王になりたいと求めつづけ、国と財と位を手に入れた豊臣秀吉は、命を終えていくときに「露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにわのことも 夢のまた夢」という句を読んだといいます。国王となったが、その喜びは、はかなく、露のような人生だったといわなければならなかったのです。「ずい分 よそを捜した」けれども、満足を得ることはなかったのです。

 救いは、苦しみから逃れることにかかりはてる、幸福の追求のところにあるのではありません。『大無量寿経』には、その「国王」が世自在王仏(この世において「我、ここにあり」と名告る仏)の説法を聞いて、敬い、大いに喜ぶ、「法蔵」という新しい自分に目覚めていく話が説かれています。

信心歓喜はわたしが何かを歓ぶ体験ではなく、実は、はじめてこの自分自身を歓べる体験なのです                   宮城 顗 『真宗の本尊』

「ここをはなれて 喜びは どこにもなかった」。この言葉は、外に自分の思いの満たされることを求める私を「ここ」に呼び返す言葉です。呼び返されて振り向けば、「ここ」は私も人も共に生きることのできる出会いの場所です。「あなたはそこにいる」といのちの願いに呼び覚まされるところに、願いに生きる生活が始まります。

                            (深草誓弥)

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