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眼前の小さな しあわせは 見えても 背後の大きな おかげさまが 見えない

眼前の小さな しあわせは 見えても 背後の大きな おかげさまが 見えない

 私の自宅には渋柿の木があります。全く実が付かない年もありますが、去年は沢山に実が付いたので自宅では食べきれず、有縁の人にお配りしました。柿取りの作業は大変なのですが、全ての柿の実を取ってしまわずに頂上に二、三個は残すようにしています。これは小学校の授業の時に聞いた言葉で「木守り(きもり)」と言って、昔から伝わる習わしだと教えてもらいました。来年も沢山実って欲しいという祈りと、人間が全て取って食べてしまうのではなく、鳥たちの食べる分も残しておこうという心使いから始まった習慣だそうです。おかげさまの恵みで生きているのは人間だけではない、鳥や獣たちも同じなのだという優しさも感じる習慣なので、私もその習慣を大切にしています。

 しかしその様な「おかげさま」の生活が、私たちの日暮らしの中で消えかけているのではないかと感じます。私がこうして生きているということは実に多くのことに支えられていますが、日頃は特に意識することもありません。思い通りになったら自分の手柄で、都合が悪いことが起こったら他人のせいにしてしまう私の根性では、「おかげさま」の言葉が出てくることはありません。私自身がおかげさまの世界を忘れて生活しているのだと反省させられます。

 この「おかげさま」の言葉は漢字で書くと「御陰様」となります。この言葉の意味は、自分の力でそうなったのでは無く、陰なる見えないはたらきによってその様になったということです。そのはたらきに「御」と「様」まで付けて最大限に敬っておられる言葉です。そして陰なる存在を神仏のはたらきとしていただき、無事に生かされている事への感謝の言葉として、先祖の方々は大切に伝えて下さいました。その先祖の方々の精神を考えると、絶やしてはならない言葉の一つだと思います。

 そのおかげさまの世界を蓮如上人は「冥加」と表現されています。日常ではほとんど耳にしない言葉ですが、「冥」の字は、くらい・暗くて目に見えないという意味で、「加」は加護、守り助けるという意味があります。人間にははっきりと見えない、分からないけれども、神仏の加護をいただいている事を「冥加」といいます。

 また、蓮如上人御一代記聞書には「朝夕、如来聖人の御用にて候あいだ、冥加の方をふかくぞんずべき」という言葉でも教えられます。朝夕(一日中)阿弥陀如来や親鸞聖人のおかげによって、衣食住の全てが与えられているのだから、冥加の世界を忘れてはなりませんという意味です。この世界を忘れてしまったら人間はどこまでも傲慢になり、他の全てのものを際限なく利用しようと考えます。そして現代の自然環境のバランスが壊れるまで資源を搾取し尽くしている結果が、異常気象の姿となって私たちに問題を突きつけているのではないでしょうか。おかげさまを忘れ、感謝の心を忘れている私達への警告なのかも知れません。

 新しい一年が始まり、既に半月以上が過ぎました。今年は良い一年でありますようにと願い、正月をお迎えなられたのではないかと思います。しかし目には見えない背後のおかげさまの存在が無かったならば、一年の善し悪しを云々する前に、一日さえも生活は出来ないでしょう。日常の会話にまでなって伝えられた「おかげさま」の言葉を、まずは口に出して生活していきたいと思います。  貢清春 平成31年1月

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