念仏というのは、心を仏様の世界と、つなぐこと。
坂東性純
今月の掲示板の言葉を読んで、私のなかで蓮如上人の「機法一体の南無阿弥陀仏」という言葉が思い起こされました。南無阿弥陀仏の南無はサンスクリット語のナマスの音をうつしたものです。意味は敬うとか帰依をあらわします。
機とは様々な縁に遇うと発動する私たちの可能性です。ですから南無は「帰依したてまつる」、私たちが阿弥陀仏のはたらきに遇い、反応するすがたをあらわします。
法は阿弥陀仏が私たちをすくうはたらきをあらわします。阿弥陀仏、阿弥陀如来ともいいあらわしますが、「如来」の「如」は「真実」という意味です。真実を覚られたのが仏(ブッタ 目覚めた者の意)ですが、仏は覚りに留まることなく、真実に気づかない、本当の満足を知らない「迷い」の状態にある私たちに、「真実」を知らせようと、はたらきかけて来てくださいます。その「はたらき」を「如」(真実)から「来」てくださった方と表現します。
しばらく前に私がきいたエピソードです。長年聞法生活をされてきたおばあさんに、息子さんが「なんで念仏する必要があるんや、念仏したって食えんじゃないか」と言われたそうです。おばあさんはその場で反論できなくて、一晩悩まれた。そして翌日このようにおっしゃったそうです。「念仏では食えんかもしれんが、念仏せんと食べたもんが無駄になるぞ」 息子さんがいっておられる「念仏では食えん」というのは、役に立つか立たないか。損か得か。常に私にとって便利かそうでないか。人間のものさしの立場からの言葉です。自分に都合のいいことならする、都合の悪いことならしない。その奥には「自分はなすべきことはわかっている。必要か必要でないかも判断できる。自分のことは自分が一番よく知っている。」というような、「わかっている」自分がいます。仏教で私たちのなかにある煩悩を「無明」と教えていますが、これは迷っている自覚が全くない、迷っていることに気づかない状態をあらわします。迷っている自覚のない迷いです。
逆に迷ったという自覚があれば、誰でもすぐに道を探しはじめます。人に聞いたり、地図を見たりします。求道は迷いの自覚からはじまりますが、無明はそういう自覚がない。自分が行くべき道をよく知っている、そういう迷い方です。しかし、果たして私たちは自分のなすべきことが本当に分かっているのでしょうか。
そのような息子さんの立場に対して、おばあさんは「念仏せんと食べたもんが無駄になるぞ」といわれたのです。おばあさんは、長年仏法を聞いてこられたそうです。掲示板の言葉にあるように「仏様の世界」からの呼びかけを聞いてこられたのでしょう。その聞法の歩みを支えているのは、仏法に遇って、「わかっている」自分の愚かさを知っておられるからだと思います。「仏様からの呼びかけを聞かないまま、ただ食べて生きとったら、空しく終わってしまうし、自分の生を支えている無数のいのちも無駄にしてしまうぞ。」私は想像します。おばあさんが、「汝、愚かなるものよ」という呼びかけを聞き、その呼びかけに頷いて「ナンマンダブツ」と念仏申されている姿を。 (深草誓弥)