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聞いて 覚えて 間に合わそうとする 根性が  お蔭さまを よろこぶ 邪魔をしている

平成21年6月

聞いて 覚えて 間に合わそうとする 根性が
 お蔭さまを よろこぶ 邪魔をしている

 

 仏法を「聞いて」あぁなるほど、そうだったのかと頷き、そして、生活の中でその聞いた仏法をそう言えばこんな教えを聞いたなぁと「覚えて」いた時、そこには、自分自身を振り返り反省することもあれば、逆に開き直ったり、居直ったりする場合もあるのではないでしょうか。

 教えを自分の都合のいいように、その時の心の有り様で聞くと、自分の都合が良い時にはスーッと入ってきて有り難いと思い、自分の都合が悪いと、凡夫だから・・・と開き直ってしまう。その時々に合わせてその教えを自分勝手に正当化し、「間に合わそうとする」私がいるのではないでしょうか。

 仏法を自分勝手に解釈し、わかったようなつもりになると、その時は納得したような気になりますが、根本的な問題は一つも解決していないのです。何故ならば、また新たな問題が生じた時、同じ事を繰り返すからです。

 仏法は人生に役立つ教えでも、問題解決の道具でもありません。逆に、見たくない自分が見えてくる教えです。しかし、そんな自分が見えてくると、では、私はどんな存在なのかという問いが出てくると同時に、自分と真正面から向き合うことが出来ます。

 自分という存在は替わりがききません。だから、自分がどんな環境に身を置いても、どんな悩みや不安を抱えていても、ありのままの自分を引き受けていかなければなりません。その、ありのままの自分を否定でも開き直りでもなく受け止められることが、「お蔭さまを よろこぶ」ということなのです。

 自分の「間に合わそうとする」根性を抜きにして、仏法を聞くことはとても難しいことです。それ程、自分の根性は厄介だということを知らされます。だからこそ、そんな自分の根性を知らせてくださる教えを聞き、自分の有り様を常に問い続けていくことがたいせつなのではないでしょうか。
 自分の置かれている現場、環境を引き受けていくことが出来ているか、私自身「間に合わせ」でなく、常に問い続けていきたいと思います。

(深草 教子)

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