平成21年5月
「老いる」
人間は 苦悩すべく生まれ
泣くべく育ち
やがて死んでゆくべく生きている
このいのちのいとなみが
どうしてわからなかったのか
あの若い日よ
「老いる」ということばにどのような印象を抱きますか。恐らく、できることなら避けたいものとして否定的に捉えるのではないでしょうか。
若い時、身体はエネルギーに満ち溢れ、努力次第で、ある程度のことは思い通りになります。また、競争社会の中で勝つことが、そのまま自分の存在価値へと繋がり、その社会で生きていくために必死に努力するでしょう。そして、思い通りにならないことは、他のせいにしたり、自分の努力不足、能力不足といって自分自身を責めたりすることで、その結果を自分に納得させようとします。
そのような世界では、悩み苦しむことや泣き悲しむといった弱い自分は邪魔です。ましてや、自分がいずれ死ぬ存在であることなど考えもしません。
しかし、年を重ねるごとに、思い通りにいかなくなることが多くなり、様々なことで、不自由さを感じるようになっていきます。
「老い」は生まれたその瞬間からはじまります。しかし、これまで思い通りにいっていたことが、思い通りにいかなくなって、はじめて老いてゆく自分自身というものを実感し、死んでゆく自分を意識していくことになるのです。
いのちのいとなみが分かるということは、我々が「生死する(死んでゆくべく生きている)」存在であることを受け止める、ということだと思います。この受け止めによって、今生きていることの有難さを実感し、生きていく中での楽しさや苦しさを味わいながら過ごしていけるのでしょう。
しかし、自分の努力で何とかしようともがく若い時に、このようないのちのいとなみを受け止められるでしょうか。この受け止めは、思い通りにいかないことを経験し、その経験の積み重ねの中でなければ、なかなかできないものです。つまり、いのちのいとなみとは、なんでも思い通りにいくと信じていたその考えが、思い通りにいかない経験の積み重ねの中で破られることで、受け止められる世界ではないでしょうか。
「老い」を否定的にみるのではなく、そこから見えてくる世界を大切なものとして受け止めていきたいものです。
(深草 証子)