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世をうれい 人をかなしみ 内にふかくこの身をいたむ 念仏の声はそこに聞こえる

平成22年1月

世をうれい 人をかなしみ 内にふかくこの身をいたむ 念仏の声はそこに聞こえる

 私達は普段の生活のなかで、うれうという事を思ったりするだろうか。今やテレビのニュースを見れば理解が出来ないほどの凶悪な殺人やお金に関する問題など、まさに氷山の一角ではあるがそのような事件がありふれている。

 しかし、私達はどこかそれを傍観してしまっているところがあるのではないだろうか。よほど身に迫る事でもない限り、うれうという事もないし悲しむという事も起こってこないと思う。そんな中にあって今月の言葉は、私達になにを伝えようとしているのかという事を思うと感慨深いものがある。

 仏説観無量寿経というお経に、ある王国の王宮内での出来事がとかれてある。それは、国の皇太子である阿闍世が、悪友の提婆達多のそそのかしにより、自分の出生の秘密を知り、その事に逆上して、父の頻婆娑羅王を殺し、王妃である母の韋提希夫人までも殺そうとした事件である。その中で王妃韋提希夫人が一連の事件に絶句し、仏陀釈尊に救いを求め、その仏陀釈尊を目の前にして、世の悪を知り、うれい、人を悲しみ、そして内に深くこの身を痛むというくだりがある。

 ここでは、仏という存在を前にして、一連の事件、我が子の犯した罪を我が事として向き合っていったということがある。そこに、縁にふれれば、自分も犯しかねない身であったという大きな気付きがあったのだ。
この話を受けて、再び今月の言葉に返ってみると、問われているのは自分自身であるということは確かだと思う。

 その中で一つ言えることは、世の中をうれい、人を悲しむというそこには、仏からうれえられ、悲しまれている自分があるということだ。そのことに気付いた時、はじめて内にふかくこの身をいたむという事が、お念仏という仏のはたらきとなって興ってくるのではないだろうか。

 今月の言葉は、私達にとって仏さまはどんな存在なのかという事と、普段なにげなく、世の中を傍観し、無責任に物を言い、他人事としてしまっている私に対し、本当に問われているのは私自身であるという事を教えて下さっているのではないかと思う。

立白法友

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