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亡き人に 迷うなと 拝まれている この私

平成20年8月

亡き人に 迷うなと 拝まれている この私

 「えっ 逆なんじゃない」と思われる人もいらっしゃるでしょう。亡き人に対して「どうか迷わないで下さい、どうか災いを及ぼさないで下さい」とお参りをして追善供養をする(私の方から亡き人へ)のが仏教だと考えていませんか?。しかし真宗の仏事は全く逆の方向(亡き人の方から私へ)だと言っても過言ではないでしょう。

 「お寺さん、先祖供養はちゃんとせんばですよね、先祖さんは大事にせんばですよね、今のわっかもん(若い人)は、いっちょん(全く)参らんとですよ」という言葉をよく聞きます。それは、自分はお内仏に毎朝参るしお墓も定期的に参る、でも若い人たちは全くお内仏もお墓にも参らない、というわけです。その気持ちは分かりますが、一つだけ気がかりなことがあります。それは先祖の何を大事にするのか、私達はその事を案外確かめたことがないのかもしれません。お内仏に参り、お墓にさえ参っておれば先祖を大事にしている事になるのでしょうか。そのことについて考えてみたいと思います。

 まず、亡き人・先祖という方々は私達にとってどんな存在でしょうか。言うまでもなく先祖の方々はそれぞれの人生を歩まれ、様々な人間との関係の中を生きてこられました。そして不思議な御縁が折り重なり私が生まれて来ました。もしもその中の一人でも欠けていたら私が生まれてくることも無かったのです。その意味を考えてみると先祖は「私のいのちの源」であると言えます。そして先祖は私に先立って命終わられた方ですが、顔を合わせたことのある先祖はほんの一握りなのです。先祖のほとんどの方は、顔も会わせたこともない、言葉を交わしたこともない全く知らない人であります。しかし知らないからといって、自分とは全く関係ないというわけではありません。全く知らない人達だけども、不思議なつながりがある。ですから先祖を知る事は、私までつながって来たいのちの歴史を知る事、とも言えましょう。

 その様な「いのちの源」ともいえる亡き人・先祖の方々は、決して私に災いをおよぼすようなお方ではありません。逆に、思いがかけられ、拝まれてある私だったんだといただくことが大切です。
 今月の言葉は「亡き人に 迷うなと 拝まれている この私」です。
 先祖を大事にするとは「先祖から願われていることを大事にする、先祖も大事にしていたこと(手を合わせ、お念仏を称えること)を大事にする」という事だと思います。

「拝まない者も おがまれている 拝まないときも おがまれている(東井義雄師)」

という言葉があります。私達の中の拝む心に先立ちて、亡き人・先祖から拝まれてあるのだと東井先生は仰っています。私達が忙しい忙しいとあくせく働いている日々の中で、亡き人を拝む心を忘れている時にも、常に思いがかけられてあったんだと。しかも拝まない者にも「どうか手を合わせ拝む人間になってくれよ、そして迷わず正しい道を歩めよ」と願っておられます。先祖そのものが願いとなって、拝む姿となって私に働いてくださっています。それが浄土真宗における先祖観になるのです。

 亡き人、先祖は迷いの存在ではありません。迷っているのはこっちです。仏の教えに遇って、右往左往して迷っているのは自分の方であったと気付けば、「迷者」として見ていた亡き人が「仏、覚者」としていただくことが出来ると思います。その目覚めがあれば自然とお内仏にも心が向き、お墓にも手が合わさる事でしょう。お参りする行為だけにとらわれて、亡き人を「迷者」としてお参りするならば、「これぐらいのお参りの仕方で大丈夫だろうか、バチが当たらないだろうか」といつでもビクビクしながら、不安を抱えながらお参りしなければなりません。
 8月はお盆、9月はお彼岸と、先祖を想う行事が続きます。先祖に思いをはせながら、亡き人からの声(願い)に耳を澄ませてみましょう。 

(貢清春筆)

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