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助けあわねば生きていけないお互いが また害しあわねば生きていけない そこに人間業の悲しさがある (金子大栄)

助けあわねば生きていけないお互いが また害しあわねば生きていけない
そこに人間業の悲しさがある  (金子大栄)

 五月末、長崎市三重町の正林寺に伺いました。ちょうど「いもさし」、サツマイモの植え付けの時期だと御住職から聞いていたこともあり、帰り道、小さな畑で作業されている人のすがたに目が向きました。すると、大きな犂(すき)、かつては牛で引いて使われていたとおもわれるような犂を、一人が縄を引き、二人が押すという、三人がかりで使い、畑を耕しておられるのです。他にも三人ほどが小さな畑で働いておられました。初めて見る光景でしたので驚きました。次の日、御住職にそのことを伝えると、三重町は漁村で、稲作をするような田はほとんどなく、多くの人が狭い土地を先人が開墾して、今も畑を作っておられることを聞きました。おそらく機械化するほど利益が上がらない為、あるいは機械が畑に入らない為ではないかと推測しますが、年配の方が三人、助け合い、力を合わせて畑を耕す姿に、心惹かれるものを感じました。現代は、農業も機械化が進み、無人トラクタ―も登場しています。川棚町内も、田植えの準備が進んでいますが、人影はまばらです。御門徒に聞くと、「近頃は田植えも機械がするので、昔のように人数はいらない」と語られました。

 掲示板の言葉の最初に「助けあわねば生きていけない」とありますが、現代はそのことが感じられなくなっているように思います。かつては、一つ屋根の下に何世代もの家族が同居し、互いに気をつかいながら、ときにぶつかり合いながら生活をしてきましたが、今は「互いに気をつかうのが嫌」という理由で核家族化が進んでいます。「迷惑はかけたくない」、「自分のことは自分で」という、あたかも一人で生きていけるようなフレーズを様々な場面で耳にします。さらに今、人間関係の煩わしさを避けたい本音を、コロナウイルス対策をたてまえにして、様々な共同体が解体しています。しかし見えにくくなったとはいえ事実、人は誰かに迷惑をかけ、支えられて生きています。竹中智秀先生は「個人は幻想ですよ」と常々語られていました。

 「助けあわねば生きていけないお互いが また害しあわねば生きていけない」。仏教は、自分も他者も、健康な人も病気の人も、お互いに深い因縁に結ばれて、事実共にいるという事を教えるものですし、またその生活の現場で見えてくる自分自身のすがたを教える教えです。「人間業の悲しさ」とありますが、生活の現場で折に触れて出てくるのは、おおよそ人間とは思えない心です。人の不幸をあざ笑ったり、人の幸せを素直に喜べなかったり、自分の考えにそぐわない人を傷つける心すらもっています。このような根性は、誰かに教わったものではありません。生まれた時に、というよりも生まれる前から、この業というものを引きずって生きているのだと思います。

 コロナウイルスを通して見えてきた自分がいます。もちろん私も他の人と共に社会を生きている以上、病気は自分ひとりのことではないから、健康に十分な注意を払う必要があります。しかし、ゆき過ぎると、過剰な自己防衛心や、周りの人が病気に罹ることを罪悪視してしまうような心になります。見えてきたのは、ただでさえ病気で身体が弱っている人や家族へ、「みんなが迷惑する」という利己心の刃をふりかざして、病人を孤立させるような心をもった私です。私がお世話になった大谷専修学院という学校は、入学式の際、一人ひとりが、御本尊の前で、「新しく仏教徒として、共同生活の中に、真宗精神を体得すべく努力精進する」ことを宣誓し、学院生活を始めます。そこで見えてきたのは、「助けあわねば生きていけないお互いが また害しあわねば生きていけない」私でした。そういう私を悲しみ、しらせるはたらきがあることを、共同生活の中で教えられたのだと改めて思い返しています。 令和4年 6月 深草誓弥

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