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この世の中 何が起こるか わからないのは この世の中に 何をしでかすか わからない私が いるから  (佛光寺掲示板)

この世の中 何が起こるか わからないのは
 この世の中に 何をしでかすか わからない私が いるから  (佛光寺掲示板)

 安倍元首相が暗殺されてから1年半が経ちました。その当時はとても衝撃的な事件だったことを記憶しています。後に報道されましたが、犯人の母は旧統一教会に入信し、多額の寄付をしていたことから家族がバラバラになり、犯人は次第に団体への恨みが増していったそうです。その報復として、団体に近い人物とされていた安倍氏の襲撃を思い立ったということでした。人間の苦しみや悩みを救済へと導くことが宗教の役割であるはずなのですが、この様な悲しい事が起きてしまった事は、宗教に携わる私にとってショッキングな事件でした。しかし、この事件の犯行に至った動機や背景を知らされると、この犯人も「被害者」という一面があった様に思われます。

 私たちは事件が起こると「加害者」「被害者」という二つの立場で見てしまいますが、厳密にどちらかに分類することは出来ないようにも感じます。その時々の環境や条件、無数の「縁」の重なりの中で事件が発生し、私たちはいつでも「被害者」にも「加害者」にもなり得るのだと思うのです。まさに「この世の中、何が起こるかわからない」時代です。しかし「この世の中」だけの問題として片付けられません。「何をしでかすかわからない、私がいるから」と、問題の根っこを私の中に見つめているのが今月の掲示板の言葉です。

 「何をしでかすか分からない」と言われても、日常は悪いことをしない様にして、なるべく善を行おうと心がけて生活しています。今年の流行語に「闇バイト」がありましたが、多くの人は「私にかぎって、闇バイトなどするはずがない」と思うものです。また、もし自分の子供が闇バイトをしていたとしても、親は口をそろえて「まさかあの子にかぎって、そんなことをするはずがない」と否定するでしょう。もし事実だったとしても信じられずに受け止められません。「意思がかたければ、犯罪は犯さない」、「私がしっかりしていたら大丈夫」そういう言葉も聞きます。しかし親鸞聖人は次の様に教えられます。

『「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」とこそ、聖人は仰せ候ひしに』 歎異抄 第十三条

とあります。「縁に触れたら何をしでかすか分からない」、「どんな振舞いもしかねない煩悩具足の凡夫である」ということを表現された言葉です。ここに「もよおせば」とあるのは、自分の意思決定に関係が無く、そうなっていくということです。私たちの思い通りにはならずに、業縁のままになっていくという事です。そういう私たちの姿を仏教では「業縁存在」と教えられます。それは、私の意思や決断によって全てを決めて実行出来る「意思存在」では無いという事です。「業」とは人間が長い間積み重ねてきた、行為の元となるものです。身体的動作や言語活動や意思のはたらきの元となるものをいいます。そして外からの「縁」があって、行為として起こっているということです。日常生活で善い行いが出来たことも、悪いことを思ったり行ってしまうことも、そういう様々な業縁のもよおしの結果です。本来人間は「縁によって何をしでかすか分からない、非常に不安定な存在なのだ」と教えられています。これは、この世の中で起こっている事と自分はつながっていて、決して他人事ではないということを知っておかなければならないという事です。

 この様な自覚が生まれる時に、事件の被害を受けた方々への共感や、罪を犯さざるを得なかった加害者に対する理解も、少なからず出てくるのではないでしょうか。これまで犯罪を犯さずに生きて来られた人は、たまたま犯行に駆り立てられる縁が無かっただけなのかもしれません。私たちに必要な事は、犯罪者への憎しみばかりを増幅させるだけではなく、それぞれの境遇や置かれた状況を知り、理解し共感することなのではないでしょか。そのためには、常に我が身(何をしでかすかわからない私)を見つめる仏の眼(仏の教え)が必要なのだと思います。 令和5年 12月 貢清春

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