雨ニモ負ケテ 風ニモ負ケテ 欲張リ腹立テ 自己中心 ソウイウ私ヲ 仏ハ見捨テナイ
ここ長崎では五月末に梅雨へ入りました。例年より早い梅雨入りです。田植えの時期になりましたが、ジメジメとした日が続き、湿気の勢いで心も体もカビが生えてきそうです。七月になり梅雨が過ぎたかと思うと、今度は台風の季節となります。昨年は稲刈り直前に台風の襲来があり、広範囲に稲の倒伏被害がありました。私は田んぼを作っていますが、稲作は時間や手間がかかりますし、収穫量は天候にとても左右されます。また近年、肥料や燃料費等の高騰もあり、収穫してみると赤字になる農家も多いと聞きます。赤字覚悟で割り切って作っている農家は問題はないかもしれませんが、過疎や高齢化も相まって離農する農家も多くなる一方です。現代の稲作は機械化によって大型化し、小人数化となり体力的な負担は減ってきました。しかし新たな問題が起こってきて悩みは尽きません、思い通りにならないいことばかり、様々な逆風が吹いている状況です。
今月の言葉は宮沢賢治の代表作「雨ニモマケズ」を元として書かれています。原文の「雨ニモマケズ、風ニモマケズ.....ソウイウモノニ、ワタシハナリタイ」という有名な詩がありますが、この詩を鏡として自分の姿を見つめてみると今月の言葉にように、雨にも風にも負けっぱなし、欲も多く、ちょっとのことで腹を立てる自分の姿が露わになります。そして、全ての事を自己中心に見てしまう自分がいます。例えば、台風が近づきそうなら心配でなりませんし、長崎を避けて通れば安心します。避けて通った台風が隣国に接近し被害があったとしても「気の毒だな」と思うくらいで、内心では「来なくて良かった」と、ほっとしているのです。私たちの日常は「自分さえ良ければいい」という判断に振り回され、自分の思いがかなう事があったら舞い上がり、思い通りにならない時には腹を立てて愚痴ばかりをこぼしています。
唯円は歎異抄という書物で、こういう私たちのこころを「ひごろのこころ」と表現されます。この日ごろのこころとは、自分を中心として物事を善し悪しと分別し判断するこころで、私たちが日常生活で常識として持ち合わせている感覚です。さらに「日ごろのこころにては、往生かなうべからず」と、そのこころでもって浄土へ生まれよう、助かろうとしてもそれは無理、かなわないといわれるのです。これは、私たちが常識だと思っている日常の感覚、自分中心の物の考え方や行動が、仏の方から問われているということであろうと思います。
そういう善し悪しに迷いながら生きる私たちに思いをかけ、はたらきかけてくださる存在を阿弥陀如来であると親鸞聖人はいただかれました。そして阿弥陀の本願のはたらきが私たちに届いた姿がお念仏です。私たちの口から南無阿弥陀仏と念仏が申されていくということは、いつでも、どこでも、どういう状況に身を置いていたとしても、阿弥陀如来は寄り添っておられるという事です。その事を御経の中には「念仏衆生、摂取不捨」と説き、愚かな私であったとしても阿弥陀の本願は照らし、見捨てずに浄土へ迎え取ろうとはたらきかけておられるのです。さらに親鸞聖人は阿弥陀の摂取のはたらきを、背を向け逃げている者さえも追いかけ、つかまえて、決して離さないとも説かれています。
念仏したら欲張らない人間になれる、腹を立てない人間になれるのではありません。念仏は自己中心でしかない自分自身の生き方を、問い直してくれるのであります。仏の方から呼びかけ問いかけられているからこそ、自身の誤りに目が覚めて軌道修正が出来るのだと思います。雑多な生活で目の前のことに右往左往している私たちでありますけれども、お念仏申す生活を大事にしていきたいものです。 令和5年 6月 貢清春