人間の本当の願いは 「通じあって生きたい」 これだけなんですよ 竹中智秀
親鸞聖人が正依の経典とされた「浄土三部経」の一つ、「仏説阿弥陀経」にはお浄土の有様が丁寧に説かれてあります。このお経には阿弥陀の浄土という国を「倶会一処(くえいっしょ)」する世界、ともに一つの処に会する場だと説かれています。浄土とは出遇う世界であり、ともに生き合い通じあう世界であります。私達人間は、心の底では誰とでも心通わせることのできる関係と、心が安らかになる居場所を求めて生きています。もし子供が病気で苦しんでいるとしたらその親は心配で、何があっても喜べない様に、自分一人だけ救われることはありえません。どんな人とも通じあい一緒に安らぐことがないと、私達は救われることはないのです。そういう衆生の願いを深く知り、受け止めた法蔵菩薩が建立した世界が浄土であります。浄土へ生まれるという事は自分個人の救いにとどまらず、どんな人とでも出遇いを成就し通じあえる、私達みんなにはたらきかけて下さる仏さまの世界が浄土なのです。
現代の生活ではSNS通信などで沢山の人々とコミュニケーションをとる事が出来ます。インターネットの普及で情報を入手するだけでなく、自分からも発信出来る時代となりました。浄土なんか求めなくても、スマホさえ有れば誰とでもつながれるよ、と反論があるかもしれません。とても便利な世の中にはなりましたが、誹謗中傷や嫉みひがみなどの言葉が氾濫し、人々に苦しみをもたらしているのも事実です。仲の良い者だけが集まり、フォロワー数の大小でその人の存在価値が決められていく様な世界に、私達は本当に満足しているのでしょうか。言葉や情報はあふれている現代ですが、心通わせ相手を思う、温もりのある言葉はどれだけあるのでしょうか。
先日、高齢になる御門徒の男性が亡くなりました。その男性は娘さんと二人暮らしで、娘さんが自宅でお父さんの介護をされていたそうです。毎日の正信偈のお勤めが習慣となっておられて、新聞を隅々まで読み、読書が好きなお方だったそうです。とても丁寧で物静かで、お寺の総代も引き受けて下さったお方でした。去年の暮れから体力が弱りはじめ、食事やお風呂の介護も自宅では難しくなってきたので、介護施設に入所する手続きを進められていたそうです。入所に必要な介護認定を受けるためにケアマネージャーさんとの訪問調査の最中に体調を崩され、そのまま息を引き取られたと聞きました。枕経のお参りの時に一部始終を娘さんから聞かせていただき、大変なご苦労をされ突然の悲しいお別れをされたことを聞かせていただきました。
しばらく前に「家で介護をするのが大変になってきたから、お父さん施設に入ろうか」と、娘さんが尋ねた時に思いもよらない返事があったそうです。「おまえは一人になるけど大丈夫か」と。そういう父親からの言葉に娘さんは「私はいつまでたっても子供だったんですね」と目に涙を浮かべながら当時のことをお話し下さいました。子供が親を思う以前に、親が子供のことを念じておって下さる。そして相手を思う感情は決して一方通行ではないということを教えられました。一緒に生きている者同士が、「会えてよかったね、生まれてきて良かったね」と感じられるほど心から通じあい、大事にしあって生きていける場所を求めているのだと思います。
私達は自分の善し悪しの分別を中心としているため、他者とすれ違っていく現実を目の当たりにすることがあります。共同生活をしている者とは衝突することもありますし、家族であっても心が離れていくことさえあります。その様な現実を生きる私達に、親鸞聖人は「浄土往生」をもって人間の救いを明らかにして下さいました。浄土を求め倶会一処する世界に生まれなさい、そういう阿弥陀の願いに触れたとき、通じあえない現実の私を問題として教えに尋ねていくのか、すれ違うのはしょうがないと開き直ってしまうのか、大きな分かれ目がある様に感じます。令和5年2月 貢清春