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おばあちゃんは(おじいちゃんは) なにに なりたいの? (ある小学一年生からの問い)

おばあちゃんは(おじいちゃんは) なにに なりたいの? (ある小学一年生からの問い)

 五月になりました。今月は一か月遅れですが、花祭りと敬老会を開催いたします。敬老会に関係する言葉を探していて、目にとまった言葉を、今月の掲示板の言葉に選ばさせていただきました。
 おそらく、おばあちゃんが、小さい孫に語りかけたのでしょう。「〇〇ちゃんは、大きくなったら、何になりたいの?」孫はその問いかけに、自分の将来の夢を語ったのかもしれません。そして、その後、逆に孫から先に挙げた言葉を投げかけられたのでしょう。
 「おばあちゃんは(おじいちゃんは) なにに なりたいの?」

 この真っ直ぐな問いかけに、私たちはどのように応答できるでしょうか。「もう、年をとってしまったから、何にもなれないよ」と思われるかもしれません。年を重ねて、今まで出来ていたことが、だんだんできなくなっていきます。
テレビのコマーシャルでは、「アンチエイジング」に関係する広告が多く見られます。「年をとりたくない」という、抗老化が今の時代の気分のようです。「老化しないように、いつまでも若々しくありたい」。しかし、歳を重ねることは、本当にマイナスの価値しかないのでしょうか。

 私たちの中には、何かをすること、できること「doing」を重んじる価値観が根深くあります。その人がどんな仕事ができる人か、何を頑張っているのか、何を成し遂げたか、などその人の行いで、その人の価値を決めるような心があります。では「仕事ができない人はダメ」、「何もできない人は価値がない」のでしょうか。思いもよらぬ病気で動くことが出来なくなることもあります。年を重ねると、しようと思っても、すること、出来ることが、だんだん無くなっていきます。

 あらためて私たちが見出さなければならないのは、「doing」、何かが出来ることによる価値ではなく、「being」存在や生命そのものの価値だと思います。何が出来るか、否かにばかり目を奪われて、「being」「ある」ことの尊さを忘れてしまっている私に、「ちょっと待て」と立ち止まる契機として、「老・病・死」があるのではないでしょうか。歩みを止めなければならないような、如何ともしがたい自らの「老・病・死」の苦悩が、かえって自分自身の存在の尊さを尋ねるきっかけになるのではないでしょうか。

 「おばあちゃんは(おじいちゃんは) なにに なりたいの?」
この問いかけは、これからどんな生き方をしていくのか、と問う言葉なのでしょう。「あなたは、歳を重ねて、病身になったとしても、その自分にどのような態度をとって生きていくのですか?」という問いです。

 阿弥陀如来からの呼びかけを「あなたは あなたに なればいい  あなたは あなたで あればいい」と聞きとられた先達の言葉が、あらためて思い起こされます。いつでも、どこでも、どんなときも、私が私自身でありうるか、どうかが、私たちの課題なのでしょう。 令和6年 5月 深草誓弥

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