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「鬼は外 福は内」「恵方巻」 問題は どうなることが 幸せか 分からないこと

「鬼は外 福は内」 「恵方巻」 問題は
  どうなることが 幸せか 分からないこと

 節分とは季節の分け目、変わり目のことであり、一年に4度(立春・立夏・立秋・立冬)訪れます。古来中国ではその季節の変わり目には邪気(鬼)が舞い込んでくると信じられていました。季節が変わる前日にその鬼を払う行事として「節分」があり、日本にもその習慣が伝えられ、春の伝統行事として習慣化しました。「鬼は外、福は内」という掛け声とともに豆(魔滅が由来)をまき、年の数だけ豆を食べて厄除けを行います。病気や災難などを鬼に見立てて追い出し、家内安全・健康長寿などの、幸せな福を呼び寄せようという考えから行われる行事です。また最近では、節分の時に恵方を向いて太巻きを食べる「恵方巻」の習慣も流行しています。これも豆まき同様「除災招福」を願う行事だそうですが、浄土真宗ではなじみの無い習慣です。

 「除災招福」とは文字通り、災いを除けて福を招くという意味で、心は私たちの素朴な日常感情です。しかし思い通りにならないのが私達の生活です。人は誰しも災難に遭いたくありませんが、縁次第では予期せぬ災難が降りかかることもあります。その中で自分の思い通りになる事が幸せな人生だと思い、逆に都合の悪い事に遭遇すると、不幸な人生だと思ってしまうのではないでしょうか。親鸞聖人は、その様にしか受け止められない人間のこころを「罪福心」と教えられます。罪悪を恐れ、福徳を得る事のみが人生の目的だと信じるこころです。お念仏の教えはそういう私たちの姿を「迷い」と教えます。そしてその様な罪福心にとらわれ、迷信や俗信にとらわれる生き方を悲しまれ、現世祈祷や占い事に頼らずに生きていける道を示して下さいます。親鸞聖人の和讃に、

「かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ ト占祭祀つとめとす」 『正像末和讃』

 「何とも悲しいことに、僧侶も俗人も、日の善し悪しを選ぶことにとらわれて、天の神、地の神をあがめながら、占いや祈願をして幸福を招き、災難を除こうと努めています。」という意味です。葬儀の時には「友引」を避けたり、「大安」の日を選んで結婚式を開催する習慣がありますが、なぜでしょうか。何が起こるか分からない未来に対しての不安があるために日を選び、占い等に頼ってしまうのです。その様な迷信に頼ってまでも幸せになりたいと、必死に生きているということなのかもしれません。しかし親鸞聖人は、自分の都合の善いことだけが起こるようにと願う道俗の姿を「かなしきかな」と嘆いておられます。除災招福を神々に祈るとういうことは、結局は自分の欲望を満たすために神様を利用しているということではないでしょうか。むしろ、都合の悪いことが起こったとしても、その出来事を素直に受け止めて、そこから何かを学んでいくことがあるならば、どんな事が身に振りかかかろうとも、自分を育てるご縁としていただけるのではないでしょうか。

 くり返しになりますが、浄土真宗ではや「除災招福」のために日を選んだり、方角に善し悪しを決めることはありません。真宗門徒にとって節分や恵方巻は、わざわざする必要がない行事だということです。本来毎日は大切な一日一日であって、掛け替えのない毎日です。善い日も悪い日もありません。無駄な一日というものは無く、自分を存在せしめる為には、大切な一日だと受け止めていくのが念仏の教えです。

 何が起こるか分からない時代ですし、何をしでかすか分からない私たちです。嬉しい事に出会うこともあれば、思いもしない出来事に苦しむこともあります。しかし、起こってきた様々な出来事を、ごまかさずに受け止めて生きていける道があることを、お念仏は教えて下さいます。それは、どんな状況に身を置いても、人生が空しく過ぎない生き方が在るということです。その教えに出遇っていくことが本当の幸せではないでしょうか。この機会に、自分にとってどうなることが幸せなのか、真剣に考えてみましょう。 令和6年 2月 貢清春

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