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「道」 ここはもう あともどりできぬ道 この世で 一辺だけ 通る道 (「常照我」榎本栄一)

「道」 ここはもう あともどりできぬ道 この世で 一辺だけ 通る道 (「常照我」榎本栄一)

 今年の夏休みは5年ぶりに親子で虚空蔵山へ登りました。虚空蔵山は川棚町と嬉野町の境にある山で、標高も608mと気軽に登れる山です。川棚からと嬉野からと合計4本の登山道があり、今回は川棚から一番険しい「冒険コース」を選びました。切り立った崖を歩いたり、ロープを頼りに岩場を登ったりと、子供達と声を掛け合いながら頂上まで目指しました。普段は使わない体力と身体感覚を総動員して無事登山を終えることができ、適度な疲労感と達成感があって、とても充実した一日でした。

 時折、宗教の話になると、次の様な譬え話をされる人がおられます。「山に登る道がたくさんあるけど、どの道を登っても必ず頂上にたどりつくでしょ。スタート地点と道程が違うだけで、行き着くゴールは同じ所。要するに、宗教も同じで、結局どの宗教を信じても行き着くところは一緒なんだから、いろんな宗教の良いところを取り入れて信じていった方がいい」。皆さんもこの様な話を聞いたことがあると思いますが、どうお考えでしょうか。

 日本の憲法では信教の自由が保証されていますので、どの宗教を信じても構わないし、同時に複数の宗教を掛け持ちしてもいいわけですから、「確かにごもっとも」と言いたくなる様な感じがします。しかし疑問も残ります。「結局、頂上(ゴール)は一緒だよ」というということです。全ての宗教を完全に知ることも出来ないのに、どうして頂上は一緒だと言えるのでしょうか。各宗派で悟りや救いの内容は違いますし、修行の内容も異なります。宗教を中心とした生活習慣や、ご本尊も違ってくるわけです。到達する頂上も違うのではないかと思うのです。

 また、「いろんな宗教の良いところを取り入れて信じた方が良い」という意見については、日本人特有の寛容な宗教感覚から出て来る意見だと思います。クリスマスを祝った数日後には寺で除夜の鐘を突き、次の日には神社に初詣に行くように、宗教行事とは自覚出来ないほどに習慣化しています。しかし取り入れようとするところは結局、自分の都合のいい部分だけをピックアップしているだけの様に感じます。おいしいところだけを食べあさっていく日本人の宗教感覚は、あえていえば「つまみ食い宗教」と言えるかもしれません。

 私は、宗教の良いところを取り入れたり、別々の宗教を同時に信じる事は出来ないと思っています。登山で2つの道を同時に登れないのと同じで、私が歩めるのは一つの道しかなく、その宗教の広がりや幅、奥深い部分もしっかりと受け止め、教えに尋ねていくことを努めなければならないと思います。親鸞聖人が著された「唯信鈔文意」には次の様な言葉があります。

 『「唯」はただこのことひとつという、ふたつならぶことをきらうことばなり』    唯信鈔文意                   

 唯という言葉は、唯この事一つ「念仏一つ」という人生の拠り所をいただき、他力の信心一つに定まるという意味です。「ふたつならぶことをきらう」という言葉は、あれもこれも取り入れるという様な信心は成立しない、という意味です。さらに蓮如上人はこの事を「余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへ」(御文、五帳目第一通)と教えて下さいます。ほかの神や仏に心を向けずに、唯ひたすらに阿弥陀をよりどころとして生きていきなさい、ということです。

 榎本栄一さんは難聴をわずらいながらも、沢山の念仏の詩を残したお方だと聞かせていただきました。今月の言葉の「道」というのは、「ただこのことひとつ」を知ることが出来た一辺だけ通る道であり、それはお念仏の道だと思います。私達の人生は「あともどりできぬ道」であり「一辺だけ通る道」です。その念仏の道を歩まれ、証してくださった先輩方の姿があればこそ、私達もその道を歩む事が出来るのです。 令和4年9月 貢清春

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