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生きるということ それは つねに誕生の意義を 問われ続けることである (広瀬杲師

生きるということ それは つねに誕生の意義を 問われ続けることである (広瀬杲師)

 福浄寺では、毎年5月に花祭り敬老会を開き、お釈迦様の誕生と敬老者をお祝いする行事を開催しています。花祭り敬老会では本堂でコンサートがあったり、こども園の園児の出し物があったりと、とても賑わう行事です。本堂の御拝口には花御堂をお飾りし、お釈迦様の誕生仏に甘茶をかけてお参りしていただきます。

 お釈迦様の誕生は「七歩」あゆまれ立ち止まり、天と地を指さして「天上天下唯我独尊」と声高らかに叫ばれました。その時大地が喜び、雨を降らせお釈迦様を洗い清めたという伝承があります。その話を基にして誕生仏に甘茶をかける習わしが伝わりました。

 これは現代人が考えると、仏陀を威厳化するための作り話の様に考えてしまいますが、この物語は仏陀となられた釈尊が誕生したまことの意味を表現しています。誕生し「七歩あゆまれた」というのは「六道」の苦しみを超える「さとりの七歩目」を歩まれる人の誕生を意味し、「天上天下唯我独尊」の声は、いのちの平等の宣言を表現します。「唯我独尊」の言葉は、決してお釈迦様だけが尊く偉いのだというのではありません。ひとりひとりの尊厳を表し、私という存在は誰にも変わることが出来ず、他と比べることが出来ないほど尊いという意味があります。

 この誕生の物語は仏陀釈尊の誕生を通して、私たちが人として生まれてきたことの意義と命の尊さを知らせています。そして私たちは何をしに生まれてきて、何のためにここにいるのか、生きるということは如何なる事なのかということが大きく問われています。それは一度考えて、答えを出したらそれで終わることではありません。今月の言葉にあるように、人生の中で誕生の意義を問い続け、いのち終わるまで自分自身に出会い続けなければならないのです。

 しかし多忙な生活を送る私たちは、その人生の問いかけにじっと心を掛けることが無いまま、良かった悪かったと一喜一憂しながら生きているのではないでしょうか。ここで兵庫県三木市の村上志染という詩人の、「水馬(ミズスマシ)」という詩を紹介します。

   方一尺の天地 水馬しきりに 円を描ける
   汝 何処より来たりて 何処へ往かんとするか
   ヘイ 忙しゅうおましてな

 ミズスマシにとっては、一尺(約30センチ)ほどの水たまりでもそこが「天地」世界の全てです。その小さな世界で忙しく円を描きながら動き回っているわけです。「あなたはどこから来て、どこに行こうとしているのか」と問いかけても「忙しくてそんな事考える暇なんてないよ」と言っているのです。煩悩に振り回され、立ち止まること無く、同じ所を堂々巡りして「忙しい忙しい」と言う私たちの姿は、仏様から見るとミズスマシなのかもしれません。

 仏陀釈尊の80年の生涯は、誕生の意義を問い続けた生涯だったのではないでしょうか。誕生仏の姿は、忙しい日常の中で一歩立ち止まり、人生の問いかけに耳を澄ましなさいとの呼びかけなのだと思います。  (貢 清春) 平成29年5月

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