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戦争に 「聖」とか「正義」 付ける嘘 (「毎日川柳」より)

戦争に 「聖」とか「正義」 付ける嘘 (「毎日川柳」より)

 今年、第二次世界大戦の敗戦から78年の年を迎えました。また8月は6日の広島、9日には長崎と原爆忌を迎えることもあり、テレビや新聞では核や戦争を取り上げる特集が報道されています。戦争という行為はいつの時代でも「人が人を殺し」、「命を傷つける」行為であることに変わりありません。人間のいのちだけでは無く山川草木を傷つけ、その国の歴史や文化も破壊していきます。釈尊は「己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。」『法句経(ダンマパダ)』と、私たちに呼びかけてくださいます。「己が身にひきくらべて」というのは、自分が傷つけられる側に立ってみなさい、ということです。殺される相手の立場に立ってみれば、他の命を奪うということは決して無いと思います。だからこそ自分自身が誰かを殺してはいけないし、誰か別の人に殺させてもならないというのです。しかしこの「己が身にひきくらべ」ることをさせない巧妙な装置が「聖戦」や「正義」という言葉なのだと思うのです。

 この言葉「聖戦」や「正義」が持つエネルギーは凄まじいものです。国民はこの言葉に扇動され高揚感を生み出し、自ら率先して仲間を戦地へと送り出していきます。戦地に動員された兵隊は、正義という言葉があることによって敵に銃口を向けることが正当化されるのです。お国のため、家族のため、正義のためという自分は絶対に正しいという思い込みの中では、恐ろしいほどに凶暴化し、他人の悲鳴や叫び声が聞こえない人間になってしまいます。そういう恐ろしさ危うさが人間にはあるのです。私たちはそういう国家間の戦争や、対立状態になった時に必ず出てくるこの二つの言葉「聖戦、正義」が「嘘」であることを知っておかなかければなりません。

 先日の福山雅治さんのラジオ放送(8月6日FM放送)で、とあるリスナーさんがアメリカに滞在していた時に、長崎に原爆を投下したB29(ボックスカー)の展示を見に行ったというお便りを紹介されていました。その人は、日本人としてみておかなければならないという、複雑な思いと怖さをかかえつつ見に行かれたそうです。その飛行機(B29)が普通に展示されていることに言葉が出ず、写真を撮ることも躊躇しましたが、忘れてはならないという思いで写真を撮影したと紹介されました。福山雅治さんも広島に原爆を投下したB29(エノラ・ゲイ)をアメリカで見学したことがあるそうです。「いろんな感情がありました。怖さと戸惑いがありました。見て何をするのか行動を起こすとかではなく・・・拳を振り上げるとか憎しみがあふれ出すとかではなく・・・ただ立ち尽くしましたね。」それから長崎の平和学習の事に触れ、「平和について考えるということは、戦争について考えるという事。戦争について考えるという事は、過去の歴史について考えるという事。過去の歴史について考えるという事は、政治について考えるという事。政治について考えるという事は、人間について考えるという事。その人間とはなんぞや。」と、云われていました。

 「人間とはなんぞや」「人間とはいかなる生き物か」を問い考えるということは、仏教が長い間掲げてきたテーマでもあります。もしかすると福山さんはその事を「アーティスト」という立場で表現されているのかもしれません。私たち真宗門徒は教えを聞く聞法するという事で、戦争を繰り返していく「人間」を教えられてきました。私たちが聞法するという事は、人間を知るということであり平和のために何が出来るのか知ることでもあります。つまり私が聞法のご縁に会うことが、平和への一番の近道になるということです。 令和5年 8月 貢清春

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