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恩と無縁で 生きてこられた人はいない 鷲田清一

恩と無縁で 生きてこられた人はいない 鷲田清一
                              
 早いもので今年も12月をむかえています。福浄寺では、門徒報恩講が10日から8日間勤まります。門徒報恩講で一年が終わり、年が明けると福浄寺の報恩講が厳修されますので、報恩講で終わり、報恩講で始まる一年となります。この法要日程を考えられた先達は、この報恩講に特別な願いをもっておられたのでないかと感じます。

 その報恩講をむかえる月ですから、恩ということが掲示板の言葉に選ばれています。「恩と無縁で生きてこられた人はいない」という言葉です。まず、恩という言葉についてですが、その字を見てみると原因の因という字の下に心という字を書きます。現在を結果と見ると、現在の自分を育ててくださった因(もと)を知るということが、恩を知るということになるかと思います。

 「恩と無縁で生きてこられた人はいない」と教えられるとおり、今の私を育ててくれた縁は計り知れません。自分を育ててくれた父母、祖父母。子どもからも親として育てられています。学校の先生、先輩、友達。今日まで私の血肉となってきた牛、豚、鳥などの生き物、お米や麦などの植物たち。そしてこれらの命をまた育ててきたものと考えると、私の存在の背景には、気の遠くなるようないのちの連鎖がひろがっています。これらの縁無くして私は成り立たないわけです。

 しかし、現代社会はこの恩というものを忘れた、あるいは恩ということを顧みない時代になっているように思います。しばらく前にある先生が話されていたことを思い起こしました。学校での出来事だそうですが、給食の時間、最初にいただきますと感謝の言葉をいい、そして食べ終わってお礼の言葉を一緒に言うということが、どこの学校でも習慣づけられていると思いますが、ある学校のPTAの会合で、一人の若いお母さんが「けしからん」と怒られたそうです。子どもが給食を食べているのは、あれはみんな親がきちんと給食費を払っているからだと。だから子どもは給食を受ける権利があるのだと。それを何で、感謝を強制するのか。それはけしからんことだと意見をおっしゃったそうです。

 私はこの話を聞いて、さみしさを感じました。そしてあらためて、「いただきます」「ごちそうさまでした」の言葉の重要性を感じました。「いただきます」、「ごちそうさま」にも自分のためにさまざまな命が犠牲になり、また苦労があってのことであることを知りなさい、というメッセージが込められているのでしょう。

 先程の話で大切な事は、恩ということを忘れれば、人間は「自分がやっている」ということしか考えない、ということです。あたかも自分一人で、自分の力で生きているかのように思ってしまいます。しかしそれは全くの幻想だということを、恩という言葉は、私たちに教えているのでしょう。恩を忘れるところには、私が生きている事実を「ありがたい」こととして受け止めることもありません。その生き方は、自分を本当に大事にすることもできませんし、私を成り立たせている周りの様々な命を大事にということも開かれてこないのでしょう。 令和1年12月 深草誓弥

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