蛙 榎本栄一
私は地獄をすみかとし 浄土をすみかとする
ぶざいくな 両棲動物です
コロナウイルス感染症の感染拡大を受けて、4月に緊急事態宣言が全国に発令されました。ちょうどその頃でしたが、庭で小学生の長男とメダカを鉢に入れて飼い始めました。家での時間の過ごし方として、他の生き物に関心を持ってもらえばと思ってのことでした。しばらくすると、そのメダカを飼っている鉢にどうやら蛙が卵を産んだらしく、オタマジャクシが沢山孵っていました。それからメダカと一緒に餌を食べながらオタマジャクシはどんどん大きくなっていきました。足が生え、だんだんと蛙の形になっていく姿に、私も息子も興味津々でした。水の中で生まれて、だんだんと浮き草につかまり、陸上で生きていく体になっていく蛙ですが、脅かすと鉢から外に出て隠れてしまっていました。
調べてみると、このころの蛙はエラ呼吸の機能が衰え、肺の機能も育ち切っていない時で、水が深いと死んでしまうそうです。意外でしたが、このころの蛙は非常に弱い存在で、水、陸上どっちにいても苦しかったのでしょう。蛙からすればもう住み慣れた水にも、もうおれない。かといって陸上には天敵が沢山待ち構えている。しかし、外に行くしかない。覚悟を決めて飛び出していたのでしょう。今月の寺の掲示板の言葉に選ばれている念仏者の榎本栄一さんの詩には、そのような、か弱い蛙の姿と、地獄と浄土の間で、いったりきたりしているような人間の姿を重ねて、さらにその弱さをご自身の身に引き当てて「ぶざいく」と表現されている、そのようなことを感じます。
『歎異抄』第九条には、著者唯円が、親鸞聖人に非常に聞きにくいことを聞く場面があります。おおよその要旨は次のようなものです。「長い間親鸞聖人から教えを聞いてきましたが、念仏申しても以前のような身も心も震えるような感動もなくなってしまい、ただ口癖のようになっています。そして念仏申して浄土に往生し、仏なるという教えを聞いているのですが、急いで浄土に生まれたいという心もありません。どうしたらいいのでしょうか。」という問いです。「念仏申し、浄土への往生を願う」ということが、浄土真宗の要なのですが、唯円は正直に「わからなくなりました」と訴えているのです。
この訴えに親鸞聖人は「何を言っているのか。お前の信心が足りないからだ。」と叱責されたのではなく、「そうですか。実は私もかつてあなたと同じような気持ちになったことがあります。それはとても大切なことだと思います」と共感をされています。そしてそのあと、親鸞聖人は「あなたが訴えている問題は煩悩というものを抱えているからです。私もあなたも煩悩具足の凡夫と阿弥陀仏は私たちをかねてから知っておられます。その凡夫をたすけ遂げようと阿弥陀仏は本願念仏を差し向けておられるのです。」と語りかけられたと唯円は述懐しています。ここで親鸞聖人は、煩悩が見えるということが大切なことですと問題の所在を押さえます。
続けて唯円は親鸞聖人の言葉として「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ。」と記しています。私はこの言葉が掲示板の「地獄をすみかとし 浄土をすみかとする」という言葉と重なっているように思うのです。果てしなく迷いづつけるようなところにおり、地獄だと教えられながら、なかなかそこを捨てて今すぐ浄土に生まれようという心が起こらない、煩悩具足の私。その「ぶざいく」な私にこそ浄土が建立されているのです。「両棲動物」という榎本さんのうなずきは、浄土真宗の教えにふれるなかで明らかになった自身の在り方を素直に吐露しておられる言葉だと思います。 令和2年12月 深草誓弥