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掃けば散り 払えばまたも塵積る 人の心も庭の落ち葉も

平成22年10月

掃けば散り 払えばまたも塵積る 人の心も庭の落ち葉も

 塵やほこりといった目に見えない小さなものは、知らない間に溜まっています。しかし、落ち葉のように目に見えるものでも知らない間に溜まっています。それを、払い除いても、すぐに塵もほこりも落ち葉も積ります。だからこそ、それを掃き、払うのです。

 同じように、私たちの心にも、知らない間に塵が溜まっているのです。この詩を読むと、お釈迦様の弟子の一人、周利槃特(しゅりはんどく)の逸話が思い起こされます。

 このお弟子は、自分の名前も覚えることもできず、その愚かさに呆れられ、実の兄からも、周りの人からも見捨てられ、孤独でみじめな生活送っていましたが、その弟の姿を見かねて、すでに帰依していた兄が仏教教団の入団を勧め、自分の受けた教えを四行の偈文にして、覚えるように言いつけましたが、周利槃特は努力の甲斐なくその偈文も覚えることができません。とうとうその愚かさに兄も激怒し、周利槃特を学び舎から追い出してしまいました。途方に暮れ、学び舎を出ていく周利槃特の姿をご覧になったお釈迦様は、その姿をお見せになり、周利槃特に一本のほうきを手渡し、「掃除をしながら『塵を払わん、垢を除かん』と唱えよ」と教えられました。何年もその教えを守り、繰り返し続けた周利槃特に、ある時「塵とは何か、垢とは何か、払い除くとはどういうことなのか」という疑問が湧いてきて、やがて自分の心の塵、垢を自覚し、それを離れ、捨てきるまでになり、ついにさとりを開いたという話です。

 その話をうけ宮城顗(しずか)先生が、心の塵、垢について、

  「いつとはなしに積もってしまう塵とは、自分の体験のみを絶対的な
  こととして誇る自負心、驕慢心であります。どこからともなくにじみ
  出てきて肌を覆ってしまう垢とは、自分のしたことや考えについて執
  着心であります。」

 と教えてくださっています。つまり、自分の能力や考えを中心に、物事を判断したり、他人と比べて誇ったり、卑下したりする心が実は、目の前にあるものを分け、距て、対比して見てしまう基であると言われているのです。また、

  「その塵と垢を払い除かないかぎり、努力すればするほど人をへだて
  差別し、軽蔑する人間になってゆくのです。」

 とも言われ、自分の心を覆っている塵や垢に気付き払わない限り、自分自身を小さくし、生き方そのものまで狭(せば)めてしまい、また縁ある人をも粗末にしてしまうということを指摘されているのです。

 能力や権威を好み、自分を絶対化する自己中心的な心は、今も昔も変わることなく人々に根深く存在します。その心によって支配され目の前にいる縁ある人であっても、見えなくなっている、そういう私たちがいかに愚かであるかということを教えて下さっているのが、この周利槃特の逸話ではないかと思います。

 常に、自分の心の塵、垢に気付き、そしてそれを払い、心をひるがえして教えを聞きなおしてゆく姿勢を現代に生きる私たちに先立って教えて下さっているのではないかと思うことです。

立白法友

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