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怒りは人と人を分裂させ 悲しみは人と人とをつなぐ (玉光順正)

怒りは人と人を分裂させ 悲しみは人と人とをつなぐ  (玉光順正)

 新型コロナウイルスのオミクロン株と思われる感染が拡大しています。毎日ニュースを見ますが、日本地図上で過去最大の感染者数として、赤の数字が私の住む長崎県の上に表示されています。この数字を見て、一喜一憂するようになってどれくらいになるのでしょうか。 

 しかし、ある時ふと思いました。「この数字の中には、多くの人の生命があり、生活があり、苦悩がある」私は、いつの間にかそんなことすら考えられなくなっていました。数字に何ら「悲しみ」を感じていない私。あらためてテレビを見ていて感じるのは、「コロナのことをどう考えるか」ということをテレビから決めさせられているような感覚です。感覚や発想を知らず知らずに植え付けられているようです。

 今月の掲示板の言葉は、玉光順正先生の言葉です。ご縁があり、私も何度か直接話をお聞きすることがありました。そのお話の中で、思い返していたことがあります。先生が親鸞聖人の次の和讃を取り上げてお話しされたことです。

  劫濁のときうつるには 有情ようやく身小なり
  五濁悪邪まさるゆえ 毒蛇悪龍のごとくなり (『正像末和讃』聖典501頁)

 先生は、「劫濁とは時代の汚れをいう。時代が悪くなると人間が小さくなってきたということ。小さくなったというのは具体的にいうと、「自分を守る」ということ」、と教えられました。その「人間が小さくなる」ということと、今回の掲示板の言葉は通底しているように思います。身近でコロナウイルスに感染された人、あるいは感染の疑いがある人に対する過度な忌避意識、心無い言葉を見聞きしました。自分が感染する不安からとはいっても見過ごすことができない事でした。「自分を守る」ため、不安を怒りに変え、暴力的な行動や言動をとる。他方でも感染者や濃厚接触者に対する誹謗中傷は止むことがありません。「怒りは人と人を分裂させ」るということ、そのものでした。コロナが人間関係を分裂させるのではなく、人が人間関係を分裂させているのでした。しかし、相手のことを想像する力を失っている、小さくなっているという点でいえば、冒頭にあげたように私も何ら変わらないのでしょう。

 「悲しみは人と人とをつなぐ」という言葉が掲示板には続きます。「悲」はサンスクリット語の「カルナー」(苦しみを同感する)に由来し、「人々の苦を抜きたいと願う心」の意味があります。どんな人も目の前で困っている人、苦しい思いをしている人がいれば、「どうしたのだろうか」「かわいそうだね」と自然に心が動くと思います。しかし、時にどうすることもできないで、力及ばずということもあるでしょう。しかし、大切にしたいことは、「かわいそうだね」という悲しみの心は、ともに生きているといういのちの感覚からおこっている心です。誰に強制されたのでもなく、教えてもらったのでもなく、他のものを気遣う心です。その他者を思い、心を振り向ける「悲しみ」は、自分がおこした心であるようですが、共に生きている人がいて、そしてその共に生きているものとつながるものを感じているからこそ、私の中に悲しみの心がおこってくるのです。悲しみだけが人と人をつなぐのだとも思います。その悲しみの心を失うとき、目の前に人がいるという現実の広い世界に目を閉じ、事の軽重もわからずに自分を守るため、毒の牙で他を攻撃する「毒蛇悪龍」が生まれるのでしょう。 令和4年 2月 深草誓弥

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