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知らぬ間撮られた写真 気に入らないが そのままの自分が写っている (浅田 正作)

平成22年9月

知らぬ間に 撮られた写真
気に入らないが そのままの自分が写っている
(浅田 正作)

 知らない間に撮られた写真は苦笑してしまうものばかりです。意識していない時の自分の顔は、こんな顔をしているのか・・・と愕然としてしまうことが多々あります。しかし、掲示板の言葉にあるように、この姿が「そのままの自分」であれば、「そのままの自分」の姿というのは、自分では見ることが出来ないものなのでしょう。

 「凡夫でありながら 凡夫を知らぬというのが人間である」
これは、安田理深という先生のお言葉です。人間=凡夫ではなく、凡夫を知らぬ=人間である。とても難しい言葉だと思いました。しかし、考えてみると、気に入らない写真は「もっといい写りが出来るのに・・・」「こんなの私じゃない」とつい思ってしまう、正にこのことではないかと思います。これが、「そのままの自分」がどんな自分であるかを知らない私たちの日頃の有り様なのです。

 お彼岸の法座で、ありのままを映す鏡=仏法である、というお話がありました。ありのままの自分は仏法の教えに出遇わなければ知ることができない、ということです。私たちは、自分のことは自分が一番よく知っている、と思っていないでしょうか。そう思いながらも、自分の善し悪しや都合で自分を見ていないでしょうか。他人から自分の思ってもみなかったことを言われた時、腹を立ててしまうことがあります。蓮如上人の聞き書きにも次のように記されています。

 人のわろき事はよくよくみゆるなり。わがみのわろき事は、おぼえざるものなり。
・・・略・・・ただ、人の言うことをばよく信用すべし。わがわろき事はおぼえざるものなる。

 このように、他人の欠点は良く見えるのに、自分の悪い所は覚えていない。ここに、自分の眼のいい加減さが見えてきます。では、何をもって自分を見るのか。それを教えてくださるのが仏法であり、周りの人々の言うこと、そして、「知らぬ間に撮られた写真」なのではないでしょうか。「そのままの自分」がどんな顔をしているのかを、「知らぬ間に撮られた写真」が写し出してくれているのです。

 気に入らないけれども、「そのままの自分」をもう一度見てみようと思いました。

深草 教子

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