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帰る場所を見失うと 人間は迷う

帰る場所を見失うと 人間は迷う

 とある御門徒さんで、認知症になられたお母さんを自宅で介護されているお宅がありました。お母さんが亡くなった後にお嫁さんから聞いたお話ですが、ある時お母さんが荷物をまとめて外出しようとされている姿を見てお嫁さんが「どこに行くとね」と尋ねると、「えんち(自分の家)にかえらんばと」と言われる。「えんちはここよ、ここがえんちよ」と何度言ってもお母さんが、「うんにゃ(いいや)、えんちにかえらんばと」と言って聞かなかったそうです。「そしたら車で送ってやっけんね」と、お母さんを車に乗せて、田んぼを一周して自宅に帰ってきたらやっと落ち着いたのか、布団に入って寝られたという話を聞いたことがあります。

 認知症になられた患者さんが「徘徊」を繰り返すのは、「生まれ故郷に帰りたい」という理由があるのだと聞いたことがあります。端から見ればただウロウロとあてもなく歩き回っている様に見えますが、目的を持って自分が生まれ育った場所に帰ろうとしているのだというのです。

 人は皆、心の奥底にある深い欲求として、身も心も安心出来る場所に帰りたい、存在の故郷に戻りたいという願望があるのだということを知らされ、考えさせられた事でした。しかし帰りたいという願いはあっても、どこが存在の故郷なのかは、いのちはどこに帰ろうとしているのか、私たちの分別やはからいで知ることは出来ません。

 そういう私たちに日本に昔から伝えられた仏教行事がお彼岸です。彼岸の中日には太陽が真東から昇り、真西に沈みます。その自然現象を手がかりにして、西方の浄土を拝みなさいとお釈迦様は教えて下さいました。「西方を拝みなさい」ということは、本来私たちが帰る場所はお浄土ですよと呼びかけられているということです。

 「彼岸」は読んで字の如く「彼の岸」で「此の岸」に対した言葉です。彼岸の浄土に対して手を合わせ、お参りするということは、私たちの都合の良い幸せが手に入るための行ではなく、今私たちのいる娑婆「此岸」の生活が照らされ、問われているということです。私の迷いの生き様を知らされ、自分の人生これで良いのか、何をたよりに生きているのか、何のために生まれて何が生きる喜びなのか。浄土の世界、浄土の教えを鏡として知らされていくのであります。また親鸞聖人は「畢竟依を帰命せよ」と浄土和讃に説かれます。「畢竟」とは「究極」という意味で、最終的には阿弥陀の浄土をたよりにして生きなさいという意味です。

 私たちの人生に迷いが生じるのは、心身共に帰るべき世界、浄土の世界を見失うことから始まっていくのだと、今月の言葉は教えて下さいます。暑くもなく寒くもない、過ごしやすいこの彼岸の時期にこそ、人間の分別を超えた浄土からの声に耳を傾けてまいりたいと思います。 貢清春 平成30年3月

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