生死の苦しみを逃れようとして
生死に苦しんでいる これが迷いである (曽我量深)
仏教語で生死は「しょうじ」と読み、人間の生き死にという意味「せいし」ではなく、「生老病死」の四苦における始めと終わりの意味で、その苦しみの人生を繰り返していく迷いの姿を表現します。
命の姿としては当たり前の「生老病死」がなぜ苦しみとして感じるのでしょうか。それは自分の思い通りにはならない、人間のはからいで操作できない領分だからです。
生まれる事から思い通りにはなりません。生まれた時代、場所、家族の環境、国、男女等々、何故こんな所に生まれたんだろう、選べるならもっと良い所に生まれればよかったと、生まれた我が身がいただけない事があります。そこに苦しみの根本があります。
そして老いは時間と共に誰しもが平等にもらうものでが、自分の若かりし頃と比較しては「つまらんものになった」と気分がめいり落ち込むことがあります。また老いに伴い体が思い通りに動かなくなり、家庭や社会の中で相手にされなくなり、よってだんだん寂しくなっていく、その事も老いの苦しみとしてあるでしょう。
病むことは老若に関係なくやってきます。 どれだけ健康に気を付けていても、病気になる時は成ります。病気になると思っていた生活ができない、快適な人生を送れず健康な人が羨ましく思われます。
そして死ぬ事。今まで築きあげた全部を捨てて、この世を去って行かなければなりません。どれだけお金を持った長者でも、権力者でも平等に命終わっていきます。また死は人生の中で何度も訪れる様な事ではありません。他と違い体験した時が終わりの時となります。その事を考えると死苦とは、死ぬその時の苦しみよりも、死ななければならない自分を苦しむ、その事が大きな事と考えられるでしょう。
この様々な苦しみをどう解消すればいいのかと、人間は苦しみの消去方法を求めます。苦しみから逃れようとして、苦しみの無い快適な方向へ向かって対処していきます。
しかしお釈迦様は「なぜ苦しみが生じるのか」と苦しみの原因を見つめて行かれます。それは「生」この世に私が生まれてきたからだと教えられます。
赤ちゃんが生まれた時、家族や知人には大きな喜びがあり、母親は出産時の陣痛も忘れてしまうくらいの感動と喜びをいただくと言います。しかし一方の赤ちゃんは泣きながら生まれてきます。人が誕生したという事は、苦しみを感じる体をいただいてこの世に出てきたということなのでしょう。要するに、その体が無くなるまでは苦しみからも逃れられないという事、それが道理なのだと諦かに教えられなければなりません。
道理に立ち、自身の事実に立ち、苦から逃げずに受け止めていこう、その事を曽我先生のこの言葉から頂きました。 貢清春