南無阿弥陀仏は わたしを 生み 育て 人と成す 久遠の母性 (池田勇諦)
新しい年を今年も迎えることができました。「あけましておめでとう」とお正月には挨拶を交わしますが、いったい何がめでたいことでしょうか。一つ歳を重ねたからでしょうか。御馳走を食べたり、お年玉をもらえるからでしょうか。真にめでたいことは何でしょうか。
「去年はあんまりいいことなかったけど、今年はいいことあるだろう」と新しい年に望みを持つのは当然のことかもしれません。しかし、何でも望み通りになった年などありはしません。思い通りにならない現実の中を思い通りになることを夢見ていきるならば、酔生夢死と教えられるように、もう二度と戻らない今を無駄に過ごしてしまうことになります。
今月の掲示板の言葉は、南無阿弥陀仏について池田勇諦先生が教えられた言葉です。先生は著書の中で南無阿弥陀仏には三つの読み方があるとして、次のようにしめされています。
一つ目は「阿弥陀仏に南無したてまつれ」と読むと、釈迦諸仏がつねに私の背を押してくださる励ましの言葉になること。
二つ目の読み方は「阿弥陀仏に南無せよ」と読むと、そこに阿弥陀の「本願招喚の勅命」、阿弥陀からの至上命令になること。
そして三つ目が「阿弥陀仏に南無したてまつる」と読むと、「私は阿弥陀仏に南無するものとして生きていきます」という決断、告白をあらわす言葉となること。
南無阿弥陀仏は、私という存在を真にこの世に誕生させ、育て、人とならしめる母性である、つまり南無阿弥陀仏が真の親であると掲示板の言葉は教えています。私たちはどんな人も二親を縁としてこの世に生を受けますが、そのことだけでは自分は「産み落とされた者」、「気が付けば生まれていた」という思いにとらわれ、思い通りにいくかいかないかという眼差しで自分の人生を眺める傍観者になるほかありません。
私の存在のはじめに「人として生きよう」という願いのあることを教えるのが南無阿弥陀仏でしょう。久遠の昔より流転していると教えられるように、この世に誕生する前から迷い続けてきている私に、すでにして南無阿弥陀仏が与えられていることの不思議。そのことを親が我が子のことを思うように、私が念ずるよりも先に、阿弥陀仏に念じられていると先達は教えられています。
妙好人の浅原才市さんは「なむあみだぶつ なむあみだぶつ 念仏は 親の呼び声 子の返事」と言葉を残しておられます。真の親として私を念じている、呼んでいる阿弥陀仏。私たちは阿弥陀仏を親と慕い、親を呼ぶのです。子が母をおもうがごとく、仏を憶うのです。
今月、福浄寺は報恩講を迎えます。親鸞聖人は人間が生きていく上でなくてはならないことを「真宗」という言葉で示されました。真宗に出遇えばいつの、どこの、誰でもがどんな状況の中でも自分を失わずに生き活きと生きていけることを、私たちに先立って念仏にあい、念仏に生きた人々が証明されています。すでにして私のところに念仏がいたりとどいていることこそ、真実めでたきことではないでしょうか。さあ、念仏申しましょう。令和7年 1月 深草誓弥