あいにくの雨 めぐみの雨
自我の思いが ひとつの雨を ふたつに分ける
六月になり、梅雨の時期になりました。春が終わり、夏になる過程でめぐってくる雨季ですが、同じ雨でもそれぞれの思いを通してみると、見え方が違ってきます。子供と外に遊びに行こうと決めていた私が見る雨は「あいにくの雨」になりますし、稲作をなさる農家の人からすれば、この時期の梅雨が「めぐみの雨」と見えるはずです。お酒が好きな人には、暑い日に目の前にあるキンキンに冷えたビールがとても魅力的に感じても、お酒が飲めない人にはそう魅力を感じるものではないでしょうし、むしろ飲みたくないものに見えるかもしれません。
こういうことを仏教では、「一水四見」(いっすいしけん)の譬えでもって説明をします。つまり、一つの水が、その生き方、その境遇によって、四通りに見られる、というのです。水は、われわれ人間にとっては、文字どおり水ですが、菩薩は、これを瑠璃の大地と見る。魚は、住家と見る。そして、餓鬼は、この水でもって咽喉を焼く、つまり火と見ると教えます。
餓鬼というのは、いつもガツガツしているもの。いつも、なにかたりないものがあって、満足するということがないもの。これが餓鬼ですから、これは飲んでも飲んでも満足できないで身を傷つけていくことを教えてあるのかもしれません。
ともかく、同じ水でも、いろいろに見られるのです。干ばつで困って、雨乞いをすることがあるかと思えば、洪水にあって、水を呪うこともあるでしょう。水がなければ生きてはおれないけれども、ありすぎても生きていられません。あるとかないとか、多いとか少いとかと、自分が置かれた境遇、縁にしたがって、一喜一憂します。
人間は、ああだとか、こうだとかと、いろんなことに出会うたびに、いろんなことを思いますが、おもったようにやってくるとはかぎりません。だから、そこでまた、妄念・妄想を描いていきます。おもいのままにならぬ人生に対して、「こうだったら」、「こうなってほしい」と妄念・妄想をさらに重ねていきます。
大切なのは見ている対象は一つなのだということです。私たちの「おもい」は、そのときそのときの条件次第で、様々に変わっていくものです。見る方の境遇が変わると、その見方がちがってくる。見方がちがうものだから、見ている対象までちがっているように思っていますが、そうでないのです。「あいにくの雨」も「めぐみの雨」も「一つの雨」だといわれている掲示板の言葉で教えてあることは、自分に与えられたり、めぐってきた事を自分の思いを通してみて、しかもその目を疑わない「自我の思い」です。
おもえば、ひとつの出来事を自分の境遇や思いによってしか受け取れていないことには「せまさ」を感じます。自分が見て、受け取っている世界だけが絶対でない、不完全だということを知っているかどうかが、「せまさ」を知り、他の人と出会っていくための大きな分かれ目でないでしょうか。それぞれがそれぞれに重ねてきた経験や与えられた境遇、その時の思いで見えてくる世界は変わってくるということにうなずければ、ひとつの事柄からたくさんのことを知っていくことができると思います。 深草誓弥 平成28年6月の「今月の言葉」随想