本当の自分がわからない人は 他人を責める 本当の自分がわかった人は 他人を痛む
今月の掲示板の言葉は、日ごろ無意識に「自分」と「他人」を分けて見て、いつでも自分は是、「私は悪くない」、他は否という立場に立ち、外を責め立てる私に対して、「あなたは本当の自分がわかっているのですか」と問いかけてくる言葉です。
「本当の自分がわかる」とはどういうことでしょうか。「諦観」という言葉があります。一般的には「諦」は「あきらめる」と読み、悲観的なものの見方のように感じますが、「諦」は「サッティヤ」という、「真実」を意味するサンスクリット語の漢語訳です。ですから仏教が教える「諦観」は「あきらかにみる」「あきらかに真実を観る」ということです。誤魔化さないで、足し算も引き算もしないで自分自身をはっきり見つめること。簡単そうですが、難しいことです。「化粧」は「化けるためのよそおい」という語から成り立ちます。考えてみると私には他者にはいいところだけ見せたい。醜い、悪しきこころは隠しておこうとする、そういうこころがあります。つねに鎧を着て、弱点を見せまいとしているのです。「私はつまらないものですから」といっていながら、他人からそういわれると事実でも腹を立てる。これも芝居をしているにすぎないためです。
「他人を責める」ということは、本当の自分はこういうものだと受け止める余裕がなく、恐れ、隠し、自分を善しとするところからなされるために、当然他者を悪と思うことになります。 親鸞聖人はそのような私たちのあり方が「自力」という精神だと教えられます。
わがみをたのみ、わがはからいのこころをもって、身・口・意のみだれごころをつくろい、めでとうしなして、浄土へうまれんとおもうを、自力と申すなり。
『親鸞聖人血脈文集』 真宗聖典五九四頁
阿弥陀仏の眼からみそなわされた私こそ、「本当の自分」でしょう。自分の思いを中心にすえ、やればできると思い上がり、自分の心で後悔や反省をし、立派な人間になって、都合のよい世界に生まれようとするあり方です。この自力のこころこそ、いつでもない今、どこでもないここ、誰でもない私を生きさせないこころだと阿弥陀如来から悲しまれている、そのはたらきを他力と教えられています。そしてその悲しみは、自力のこころをもつ、すべての人間にそそがれています。逆に言えば、どんな人であっても、抱えている課題は、一つです。
「本当の自分」は、自分で自分のこころをコントロールできるような者でもなく、自分の都合のいいように他者も世界を変えることもできません。思うようにならない出来事の前で、「こうであったらいいのに」と右往左往するのです。教えに照らしてみれば、私達が本当に欲しているのは、都合のいい他者、世界ではないでしょう。わが思いは都合のいいものだけを自分としようと分別しています。しかし、その全体をになって現実に今ここに生きている私がいます。
「本当の自分がわかった人は 他人を痛む」ということは、如来の悲しみに遇い、真の自分の相に目覚めたものは、同じ悲しみが他者にもそそがれていることを知るものであることを教える言葉です。自分のこととして他人を痛むことは、大悲のうえでしか成り立ちません。「本当の自分」に目覚め、「他者を痛む」。それは御本尊阿弥陀如来の御前において開かれる真の人間関係です。
深草誓弥