「悪」はつねに外部にあるなら 経験は何度繰り返しても経験にならない (山本夏彦『毒言独語』)
2歳になる次男、和樹が俗にいう「イヤイヤ期」をむかえています。楽しそうに遊んでいるなと見ていても、思い通りにならなかったりすると、イヤだというよりも癇癪を起して、「もう、おにいちゃんて、もう!」と怒りの矛先を6つ年上の兄にむけて、叱っています。たしかに長男からちょっかいを出されて怒っているときもありますが、よく見ていると自分で抱えきれないイライラを兄に当たることで処理しようとしていることも少なからずあるようです。最近はその矛先が、おばあちゃんや、おじいちゃん、私にも向くようになりました。今はその次男から離れてパソコンに向き合っているため、面白い事とも感じれますが、いざその時、何もしていないはずなのに「もう、おとうさんて、もう!」と怒りをぶつけられると、まいってしまいます。
しかし、ふと気づいたのですが、この次男が周りの家族に怒りをぶつける「もう、和樹!」という言葉は、私たちが次男を叱るときに使っている言葉でした。2歳の次男は、私たちが強い口調で叱る「もう、和樹!」という言葉を、今度は「自分は悪くない。まわりが悪い」として使い、自分の正義を立てようとしているのです。そうすると、思わず考えてしまいます。次男を叱る私は悪くないのでしょうか。そんなことを考えていた時に思い起こした歌の歌詞があります。
人はそれぞれ正義があって 争いあうのは仕方ないのかもしれない
だけど僕の「正義」がきっと 彼を傷つけていたんだね
SEKAI NO OWARI 『Dragon Night』より
掲示板の言葉に教えられることの一つに、『「悪」はつねに外部にある』ということは、こちら(内)には常に正義があるのだという事です。一所懸命に「もう、おにいちゃんて、もう!」と怒る次男が正義に立ち、守ろうとしているのは自分です。そして次男を叱る私も、結局のところ自分を立てるために子を叱っている。2歳の次男と39歳の私。「自分は正しい。悪いのはまわり」何も変わらないものをもっているのでした。「経験は何度繰り返しても経験にならない」とあるように、私自身の思い上がりを知らせるものがなければ、「自分は正しい。悪いのはまわり」という生き方は、他者と共に生きられないばかりか、結局は自分も大切にできず、虚しく人生を終わることになるということを教えている言葉ではないでしょうか。
悪を外部におき、自分のなかに正義を立てようとする。この問題の根っこはどこにあるのでしょうか。私は自分が自分自身にどう態度をとるかという問題だと思います。言葉を変えるなら、自分を本当に愛せるものになるかどうかではないでしょうか。お世話になった先生から繰り返し「事実の自分を大切にしなさい」と教えてもらいました。それは決して自分の思い描いた自分になりなさいという事ではありません。自分を他より能力のある人間と思いこみ、他人を見下して、優越感にひたることではありません。思い通りにならず、人とくらべて自分は駄目だと劣等感をいだくことでもありません。
『涅槃経』というお経には、「一切の衆生、悉(ことごと)く仏性(ぶっしょう)あり」(人間は誰でも仏になろうという願いを持っている)と説かれています。まわりの誰かを悪にして自分一人の正しさを立てようとする私の思い込みを破って、どんな人も「事実の自分を大切に生きていきたい」という願いをもった命を生きていることを教えるのが仏教です。 令和4年 8月 深草誓弥