教室で子どもが質問した。「あーんと口を開けると、喉の奥に、上からさがってついてる、ぼくらが『ノドチンコ』と呼んでいるものが見えてきます。あれは、どういうはたらきをしているのですか」私は困ってしまった。そのはたらきを全く知らなかった。
調べてみると、食べものを飲み込むときには、あの「のどちんこ(口蓋垂・こうがいすい)」が、気管の入り口を、ピタリと蓋(ふた)をしてしまうそうだ。そのおかげで、まちがいなく食べたものは食道に進み、胃に進むというのだ。
それが解ったとき、天地がひっくり返るほど、ショックを受けた。そのはたらきを知らぬくらいだから、一度も、感謝したことなどない。お礼を言ったことも、もちろんない。それどころか、「ノドチンコ」のことひとつ解っていないのに、「唯物論」だとか「無神論」だとか、偉そうなことを言い、「傍若無人」に生きていた私だった。
このとき、私の生きているという底にあって、私を生かしづめに生かしている何ものかを強烈に感じたのだった。気がついてみたら「口蓋垂」だけではない。目も耳も手も足も、心臓も、みんなみんな、ただごとではない、不思議きわまることであったのだ。「生きてる」とばかり思っていた私が「生かされていた」のだ。頭の上がらぬ思いだった。
幼い時からずっとずっと、こういう私によりそって、はらたきづめにはたちいてくださったはたらき、願いがあったのだ。私が忘れているときも、背いているときも、おこっているときも、私の背後から、祈りづめに祈り、働きづめに働いていたのだ。それに気づいたとたん「助けてくだされよというに非ず、助かってくれよとある仰せに従うばかりなり」ということばが、有無を言わせず私を「仏」の前にひきすえた。
「仏さま」は、「私」の向こうにではなく、「私」の「いのちの根源」に、はたらき続けていてくださっていた。
(東井義雄)
八月の婦人会法筵は、講師に崎戸の真蓮寺御住職、寺本温師をお招きしまして、『仏説観無量寿経』について御法話をいただきます。尚、この法筵は、婦人会主催の法筵であり、会員皆様に限りませんので、御門徒皆様もお誘い合わせの上、御参詣くださいませ。
記
○婦人会法筵
日時 8月1日(土)~8月3日(月) 午前9時半開筵
法話 崎戸・真蓮寺住職 寺本 温師
○盂蘭盆会法筵
日時 8月16日(日) 午前9時半開筵
○納骨堂盆読経
日時 8月13日~15日 午後6時
場所 福浄寺納骨堂