生者の身勝手が 亡き人を
餓鬼 畜生にする
常に飢えて、満足感のない境界を餓鬼という。常に束縛されて引きずり回されている境界を畜生という。
畜生は主体性なく、いつも責任を他に転嫁するからして、罪の自覚もない。したがって慚愧(ざんぎ)の心もない。ついには死者にも鞭をふり、神・仏をも恨むことになる。満足感のない餓鬼の根性は、限りなく欲望を追求して自分の都合のよい条件を満たそうとして、他人の気持ちをかえりみることがない。神・仏をも利用しようとする。
人間の親から餓鬼・畜生が生まれる道理はない。もし私自身が餓鬼・畜生として生きているとすれば、今は亡き父母たちは、餓鬼・畜生だと言わなければならない。
声なき姿なき親を前にして、我々は何を思うでしょうか。「亡き人が、亡き身をもって、何を語ろうとしているのか」という、声なき人の声に耳を澄ませる時、常に私を見守り続ける亡き人の「ねがい」が聞こえてくるに違いありません。
秋の永代経法要を左記の如く厳修致します。永代、無量寿の経教に依って御先祖の遺徳を偲びつつ、御恩の誠を尽くさんがための聞法の御縁にお遇い下さいませ。
記
日時 平成27年 10月16日(金)~18日(日) 午前9時半開筵
講題 「亡き人、先祖とは、その供養とは」
講師 日田、緑芳寺 河野通成師・及び住職