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真宗の歴史

 私たちが宗祖として仰ぐ親鸞聖人。その親鸞聖人によって開顕されたのが浄土真宗です。その浄土真宗という宗派の名になっている真宗とは、真(まこと)を宗(むね)として生活するということです。浄土という世界をしらない私たちに、浄土という真実のほうから開かれたはたらきかけの世界を示されたのが、阿弥陀如来です。

 阿弥陀如来は,なぜ浄土をつくられ、その浄土に一切衆生を平等に往生させ、たすけとげようとされるのでしょうか。

 私たちは日ごろ、自分で、自分を、どうにかして立てていこうとする生活をしています。その根本にはものごころついたときから、「自分というものがまずあり、それから自分の生活がはじまる」とするこころがあるのです。自分というものを絶対化して生き、その思い描く自分に都合が悪ければ排除し、都合がよければ迎え入れようとするこころを中心にして生きて、逆に自分自身と一つになれず、もちろん他者ともいきることのできないでいるものを、仏は「凡夫(ぼんぶ)」といいあてられています。

 その凡夫である私たちを阿弥陀如来はよく知られ、「凡夫よ、汝自身に帰れ」と語りかけるのです。凡夫であるがゆえに、帰るところなく孤独なわれわれに、阿弥陀如来は、「えらばず、きらわず、みすてず」の御こころ、本願によって浄土を荘厳し、一切衆生の往生を願い、南無阿弥陀仏をもって、願いを呼びかけとして伝えようとされています。

 私たちの一大事の問題とは、「いつでも私は私自身でありうるか、どうか」です。竹中智秀先生は、「浄土に往生するということは、ここで生きられるようになったということです」と繰り返し教えてくださいました。浄土真宗の歴史は、いつの、どのような時代においても、念仏のみが、いま、ここにいる、この私となり、生きていきたいという願いを全うできる道であると、如来の呼びかけを聞いた歴史であると思います。

釈尊(しゃくそん) 紀元前463~384

 今からおよそ2500年前に、ゴータマ・シッダルタという一人の人間が覚りを得られ、自らゴータマ・ブッタと名告られました。仏陀(ブッダ)とは「目覚めた人・気付いた人」という意味で、この後から「釈迦牟尼仏陀」(シャークヤ・ムニ・ブッダ)「シャカ族の・尊い・目覚めたもの」と呼ばれ、シャカ族の尊い人の意である釈尊と呼ばれるようになります。

 この仏陀、釈尊がこの世に出られたという出来事は、私たちにとってどういう意味をもっているでしょうか。

 「私はなぜ生きるのか、何にむかって生きているか。」私たちはこの人生の根本の問題に答えを見い出しているでしょうか。この問いに答えがないために、その時々の欠乏を埋めようと、その時々の欲望に振り回され、空しく過ごしているといわざるをえません。

 「私はなぜ生きるのか、何にむかって生きているか。」この問いに答えがない、あるいは誤った答えが与えられるとき、私たちはやみくもに「苦」をなくそうとします。

 釈尊は現在の北インド、ネパールとの国境近くにあったカピラヴァストゥを城とする釈迦族の太子として誕生されたと伝えられます。太子は「ゴータマ・シッダルタ」と名付けられました。

 そのゴータマの誕生の際には、母マーヤー夫人がルンビーニーの園にて無優樹の枝に右手をかけたとのとき右脇から生まれ、誕生したゴータマは七歩あゆみ「天上天下唯我独尊」と言葉を発し、天からは甘露の雨が降り注いだと伝えられます。
(釈尊の誕生は日本では4月8日と伝えられています。)

 王族として満たされた生活を送っていたであろうゴータマに大切な転機が訪れます。出家です。経典には
「老・病・死を見て世の非常を悟る。国の財位を棄てて山に入りて道を学したまう。」(『大無量寿経』 聖典3頁)
とあるように、人が老い、病み、死んでいくすがたをみて、自らも老い、病み、死んでいくものと感じた、そこに出家という、死すべき生をいかに生きるかという求道的な生活のはじめが教えられています。

 私たちはどうでしょうか。老・病・死という人生の事実を釈尊とは逆に、老・病・死が自分のこととしては受け取れず、都合のよい生のみを「よし」とし、一番都合の悪い死を「あし」として、祓い、清め、隠そうとしています。その基準を作り出す「自分」がある限り、自と他の分裂はまぬがれえないのです。

 ゴータマが自らも老・病・死するものと感じた、そこには「苦」というかたちで自と他の分裂を超えた声を感じられたということがあるのでないでしょうか。苦悩の事実にうながされ、苦悩を越える道をたずねずにおれなかったのです。

 「苦」を感じられて出家され、「苦」の原因をたずね、解脱された仏陀、釈尊は「私」のいのちとして固執するこころと、その固執されたバラバラの個人のいのちから、阿弥陀のいのちを生きるものとなられたのです。

七高僧

 仏教では法を伝える師を善知識といいます。法とは教えであり、信仰のよりどころですが、その法は必ず人を通してあらわになります。法は個人的な思いつきでなく、すべてのいのちあるものに通じる普遍性をもつものです。

 法が人を通し伝わることを相承(そうじょう)といいます。親鸞聖人はご自身が七人の人々を選んで相乗の祖師と定められた、その七人に通じていることとして、「正信偈」に次のように受け止めておられます。

印度西天之論家 中夏日域之高僧
顯大聖興世正意 明如來本誓應機

印度・西天の論家、  中夏・日域の高僧、
大聖興世の正意を顕し、 如来の本誓、機に応ぜることを明かす。

大意

(インドの龍樹、天親。中国の曇鸞、道綽、善導。日本の源信、源空。それぞれみな釈尊が世に出られたのは弥陀の本願を説くためであり、弥陀の本願は衆生をたすけんがための願であることをあきらかにした。)

 親鸞聖人は直接法然上人より浄土のはたらきをうけられ、法然上人は源信僧都の『往生要集』を読んで善導大師の教にふれられました。善導大師は道綽禅師の直接の弟子で、道綽禅師は曇鸞大師の碑文を縁として浄土教に帰されました。曇鸞大師は天親菩薩の『浄土論』を註釈して『浄土論註』を著し、その巻頭には龍樹菩薩の難易二道決判をひいておられます。

 時代を超え、インド、中国、日本の国を超えて、弥陀の本願によって貫かれた歴史を親鸞聖人は、ご自身の信仰の歌である「正信偈」で讃えておられるのです。

龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ - 印度名:ナーガルジュナ) 西暦150~250年

 著書:『十住毘婆沙論』(じゅうじゅうびばしゃろん)『中論』(ちゅうろん) 『大智度論』(だいちどろん)

「正信偈」龍樹章
釋迦如來楞伽山 為衆告命南天竺
龍樹大士出於世 悉能摧破有無見
宣説大乘無上法 證歡喜地生安樂
顯示難行陸路苦 信樂易行水道樂
憶念彌陀佛本願 自然即時入必定
唯能常稱如來號 應報大悲弘誓恩

釈迦如来、楞伽山にして、衆のために告命したまわく、
南天竺に、龍樹大士世に出でて、ことごとく、よく有無の見を摧破せん。
大乗無上の法を宣説し、歓喜地を証して、安楽に生ぜん、と。
難行の陸路、苦しきことを顕示して、易行の水道、楽しきことを信楽せしむ。
弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即の時、必定に入る。
ただよく、常に如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべし、といえり。

 「正信偈」の龍樹章は、『楞伽経』(りょうがきょう)に説かれる龍樹の物語と、『十住毘婆沙論』「易行品」の内容が述べられています。

 『楞伽経』には、釈尊が、ご自身の滅後七百年に南天竺に龍樹という比丘が現れて、よく有無の見を破り、大乗無上の法を説き表し、歓喜地を証し得て、安楽国に往生する、という物語があります。この物語のつくられる背景にあったのは、無数の人々の自分も他者も共に生きていきたいという願いでした。大乗の法を求める願いが、この物語にこめられているのです。

 龍樹菩薩は、有無の見(固定的な観念)を破る「中道」という精神が仏教の精神であると説かれ、又、仏道に難行と易行との二つがあり、それは「あたかも旅をするに陸路を自らの足で歩んで行く方法と、海路を船に乗って進んで行く方法とがあるようなものである」と易行の一道を明らかにされました。

 龍樹菩薩の教える易行道とはなんでしょうか。「信方便の易行をもって疾く阿惟越致(不退転)に至る」(「易行品」)如来の本願を信じ、念仏申すことのみが、すべての人に開かれた仏の教えだと龍樹は応えます。

天親菩薩(てんじんぼさつ - 印度名:ヴァスバンドゥ) 西暦五世紀頃

  書:『浄土論』『阿毘達磨倶舎論』(あびだつまくしゃろん)

「正信偈」天親章
天親菩薩造論説 歸命無碍光如來
依修多羅顯眞實 光闡横超大誓願
廣由本願力廻向 為度群生彰一心
歸入功德大寶海 必獲入大會衆數
得至蓮華藏世界 即證眞如法性身
遊煩惱林現神通 入生死薗示應化

天親菩薩、論を造りて説かく、  無碍光如来に帰命したてまつる。
修多羅に依って真実を顕して、  横超の大誓願を光闡す。
広く本願力の回向に由って、  群生を度せんがために、一心を彰す。
功徳大宝海に帰入すれば、  必ず大会衆の数に入ることを獲。
蓮華蔵世界に至ることを得れば、  すなわち真如法性の身を証せしむと。
煩悩の林に遊びて神通を現じ、  生死の園に入りて応化を示す、といえり。

 天親菩薩は北西印度のガンダーラ地方のバラモン(司祭階層)の家に生まれ、兄、無著と共に出家し小乗の学びをしておられたようですが、後に大乗の教えに帰した兄にさとされ、天親も同じく大乗に帰していったと伝えられています。

 代表的な書である『浄土論』は、正式には『無量寿経優婆提舎願生偈』です。題の「無量寿経」は、中心的には『大無量寿経』を指します。「優婆提舎」とはウパデーシャ、「近づいて示す」という意味があります。「無量寿経」として説かれた如来の本願のこころを、私たちのために近づいてしめされている論であるといえます。

 『浄土論』の中心は天親が阿弥陀仏の浄土へ往生を願った歌、「願生偈」が中心となっています。その偈文の最後は
普共諸衆生 往生安樂國
普くもろもろの衆生と共に、安楽国に往生せん。

 という一句で結ばれています。阿弥陀仏に出会い、浄土に往生するものは、単に個人としてバラバラに生きてきた生から、すべての人と共に生きていくことを願うものとなる、そのように、天親は自ら遇うことのできた本願のはたらきを讃えておられます。

曇鸞大師(どんらんだいし)(中国) 西暦476~542

  著書『浄土論註』 『讃阿弥陀仏偈』(さんあみだぶつげ)

「正信偈」曇鸞章
本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩禮
三藏流支授淨敎 焚燒仙經歸樂邦
天親菩薩論註解 報土因果顯誓願
往還廻向由他力 正定之因唯信心
惑染凡夫信心發 證知生死即涅槃
必至無量光明土 諸有衆生皆普化

本師、曇鸞は、梁の天子 常に鸞のところに向こうて菩薩と礼したてまつる。
三蔵流支、浄教を授けしかば、仙経を焚焼して楽邦に帰したまいき。
天親菩薩の『論』、註解して、報土の因果、誓願に顕す。
往・還の回向は他力に由る。正定の因はただ信心なり。
惑染の凡夫、信心発すれば、生死即涅槃なりと証知せしむ。
必ず無量光明土に至れば、諸有の衆生、みなあまねく化すといえり。

 曇鸞の出身地は現在の中国、山西省と伝えられます。中国仏教の中心地であった五台山の近くに生まれ、仏道をあゆむ人たちのすがたをしたって少年のころに出家されました。龍樹を祖とする縁起、空を説く中観に学ばれました。

 あるとき『大集経』というお経の註釈書を作ろうと思いたたれますが、大病を患ってしまいます。幸いに病気は治られますが、そのいのちのはかなさに、いつまでも健康でなければ元も子もない、と中国に古くから伝わる、健康で長生きできる法、長生不死の道教の法を求められます。

 そして曇鸞は道教の第一人者、陶弘景(とうこうけい)をたずねて、長生不死のおしえ、仙経を授かりました。「これで思う存分仏教を学べる」と思っていたであろう曇鸞にひとつの出来事がおこります。

 インドからお経の翻訳をする僧として菩提流支(ぼだいるし)との出会いです。曇鸞は長生きする法を手に入れ、これから仏教を研究しようとするものとして、菩提流支に「仏教のなかに、この仙経よりも勝る教えはありますか」とたずねます。それに対して菩提流支は「君が得たという長生不死の法がどこにあるのか。そのようなものはどこにもない。たとえ、仙経によって死を遠ざけたとしても、それは自分にとって都合のよい生のみをもとめ、都合の悪い死を遠ざけようとする、その自分の思いのなかで迷う生きかたを延ばしているのにすぎないではないか。」と厳しく叱責されたのでした。

 仏教は「出離生死を問う」ところにはじめがあります。死のある生、その現実をくらますことなく、「どう生きることが真実にかなうことか」とたずねることが仏道をあゆむということです。生死するいのちのままに、それを自分の人生とすることができてこそ、本当の満足があるのです。

 菩提流支の言葉によって、曇鸞は自分が生死に迷う生きかたであることを教えられ、あらためて仏教を志した「出離生死を問う」生きかたへと喚び返されたのでした。そして、自ら仙経を焼き捨てて、仏弟子としての自分の立場を明確に宣言します。

 そして曇鸞はその仏道の原点にたち、「五濁の世、無仏の時」といわれる、時代、社会を背景として生きる自分たちに、仏の教えは何を語りかけているのかをたずねます。そこにあったのは、「どう生きることが真実にかなうことか」という真実からのはたらきかけでした。仏の教えを云々するのではなく、自分が仏からどう見られているか。念じたもう仏を念ずる、仏道の転換を「他力」となずけられ、如来の本願の教えに帰されたのです。

道綽禅師(どうしゃくぜんじ)(中国)西暦 562~645

  著書:『安楽集』

「正信偈」道綽章
道綽決聖道難證 唯明淨土可通入
萬善自力貶勤修 圓滿德號勸專稱
三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引
一生造惡値弘誓 至安養界證妙果

道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす。
万善の自力、勤修を貶す。円満の徳号、専称を勧む。
三不三信の誨、慇懃にして、像末法滅、同じく悲引す。
一生悪を造れども、弘誓に値いぬれば、 安養界に至りて妙果を証せしむと、いえり。

 道綽は少年期の十四歳の時に出家されたと伝えられます。その道綽の出家の前年、隣国の北周の武帝という皇帝が廃仏、仏教廃絶をおこなっています。その武帝の廃仏はついで道綽のいる北斉におよび、出家してすぐに強制的に還俗させられたものと思われます。圧倒的な時代社会の流れに道綽の思い立ちは押し流されていってしまったのです。

 「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」(宮沢賢治)という言葉がありますが、廃仏という苦難にあった道綽は、世界のあゆみと自分のあゆみがまったく一つになって矛盾しないということが、いかにして成り立つか、という大乗仏教の中心課題をになわれることになったと考えられます。

 北周の武帝が没した後に建国された隋の文帝は廃仏をやめて、仏教の復興に努めました。おそらく道綽もこのときにふたたび出家したと思われます。そして「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」を説く『涅槃経』を学びます。

 しかし、三十歳を過ぎたころに厳格な戒律を実践する、慧?(えさん)禅師の教団に入られます。人々の布施に身をまかせ、最小限度の衣食住をおこなう、頭陀行(ずだぎょう)をおこなう教団に入られたのは、仏陀釈尊につうじる生きかたを求めてのことだったのでしょう。

 その慧?(えさん)は六〇七年に亡くなられます。そのとき道綽は四十六歳でした。その後、伝記は浄土の教えに帰したことを伝えていますが、この出来事は重大でした。道綽のこころを推察してみますと、たのむべき師が亡くなり、もちろん生きた釈尊にも直接会うことができない、そのような自らのあゆみを模索されたときであったと思われます。

 道綽が明らかにされた聖道門と浄土門の二門の決判は、仏の説かれた、生死を厭い離れる教えにあいながら、しかし、あいも変わらず教えから遠く隔たる我が身、そして時代社会の現実の凝視にほかなりません。

このゆえに『大集月蔵経』に云わく。「我が末法の時の中に億億の衆生、行を起こし道を修せんに、未だ一人も得る者あらじ。当今は末法なり。この五濁悪世には、ただ浄土の一門ありて通入すべき路なり」と。

このゆえに『大経』に云わく。「もし衆生ありて、たとい一生悪を造れども、命終の時に臨みて、十念相続して我が名字を称せんに、もし生まれずば、正覚をとらじ」と。

 道綽は称名念仏の道が仏が凡夫のためにおこされた本願の道であることを明らかにされたのです。

善導大師(ぜんどうだいし)(中国)西暦613~681

  著書:『観無量寿経疏』(かんむりょうじゅきょうしょ) 『法事讃』(ほうじさん) 『往生礼讃』(おうじょうらいさん)

「正信偈」善導章
善導獨明佛正意 矜哀定散與逆惡
光明名號顯因縁 開入本願大智海
行者正受金剛心 慶喜一念相應後
與韋提等獲三忍 即證法性之常樂

善導独り、仏の正意を明かせり。  定散と逆悪とを矜哀して、
光明名号、因縁を顕す。  本願の大智海に開入すれば、
行者、正しく金剛心を受けしめ、  慶喜の一念相応して後、
韋提と等しく三忍を獲、  すなわち法性の常楽を証せしむ、といえり。

 善導は隋の大業九年に現在の山西省に生まれました。幼少のころに出家したと伝えられますが、善導は仏法を求めるなかで『観経』にこころひかれ、周囲から称名念仏の人として仰がれていた石壁玄中寺の道綽に師事します。

 師の道綽が亡くなり、善導は長安近郊の終南山悟真寺に入り、仏を観ずる法である観行に励んだと伝えられます。後半生を当時国際都市であった長安の民衆の中におき、師の道綽の遺弟として、念仏の教えに生きられました。

 善導の主著『観経疏』は「楷定古今の疏」と呼ばれます。これまでの聖道の諸師が仏を観ずる法と『観経』の解釈をしてきたのですが、善導は『観経』に説かれる仏の真意は万人に公開された、称名念仏の道をあきらかにすることにあるとみたのです。
ただこの『観経』は仏、凡のために説きたまう、聖のためにせざるなり。

 善導は、凡夫の自覚こそが本願の信心であることを明らかにされたのです。

源信和尚(げんしんかしょう)(日本)西暦 942~1017

  著書:『往生要集』

「正信偈」源信章
源信廣開一代敎 偏歸安養勸一切
專雑執心判淺深 報化二土正辨立
極重惡人唯稱佛 我亦在彼攝取中
煩惱障眼雖不見 大悲無倦常照我

源信、広く一代の教を開きて、  ひとえに安養に帰して、一切を勧む。
専雑の執心、浅深を判じて、  報化二土、正しく弁立せり。
極重の悪人は、ただ仏を称すべし。  我また、かの摂取の中にあれども、
煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、
大悲倦きことなく、常に我を照らしたまう、といえり。

 源信は天慶五年に今の奈良県葛城市に生まれました。少年期に比叡山にのぼり、横川の良源に師事します。若年から仏教教学に優れた才能を表した源信は、十五歳の時に宮中において法華八講の講師を任されるほど教学の教えに深く精通した方でした。

 しかし、その源信和尚に一つのエピソードが伝えられています。宮中での法話を終えた源信に、衣が送られました。源信は僧としての名誉の衣を、少年のときに別れた母に送ります。母も息子の栄誉を喜んでくれると思ったのでしょう。ところが母親は、
後の世を渡す橋とぞ思いしに 世渡る僧となるぞ悲しき
と、源信の名利心を厳しく指摘されました。名利心を満足させるために仏教を学ぶのではない、その名利を求め、かえって迷いを深めていく自分の思いを教え知らされ、厭い離れることこそ、大切な仏教の精神であることを母から学んだのでした。

 『往生要集』は「濁世末代の目足」となる往生浄土の文を集めたものです。本願にかなう如実の念仏ひとつにこころを定める専修の人は報土に往生し、念仏以外の行や念仏ひとつにまかせることのできない雑修のひとは化土に往生すると教えられています。われもひとも、いつでも、どこでも、だれでもが、そのままに念仏もうすことができる、自らが出遇った念仏の普遍性を語りかけます。

源空上人

源空上人(げんくうしょうにん)=法然(ほうねん)上人(日本)西暦 1133~1212

  著書:『選択本願念仏集』

「正信偈」源空章
本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人
真宗教証興片州 選択本願弘悪世
還来生死輪転家 決以疑情為所止
速入寂静無為楽 必以信心為能入

本師・源空は、仏教に明らかにして、  善悪の凡夫人を憐愍せしむ。
真宗の教証、片州に興す。  選択本願、悪世に弘む。
生死輪転の家に還来ることは、  決するに疑情をもって所止とす。
速やかに寂静無為の楽に入ることは、  必ず信心をもって能入とす、といえり。

 法然上人は美作国、いまの岡山県に生まれられました。父は押領使(おうりょうし)という、地方の豪族から任ぜられる武官をつとめていました。伝記によれば、法然上人が九歳のころ、父は夜討ちにあい、亡くなります。父は死に臨んで法然に「なんじ、もし成人せば、往生極楽をいのりて、自他平等の利益をおもうべし」と諭したと伝えられています。

 父の死後、法然上人は菩提寺の住職、観覚(かんかく)のもとに身を寄せ、仏教に学びます。やがて観覚はかつて自分が学んだ比叡山に法然上人を送り出しました。比叡山での法然上人の学びは、さまざまな伝記が伝えているように、すぐれた智慧才覚で天台宗の学びはいうにおよばず、興福寺、東大寺などをたずねて、広く仏教を学んだといいます。人々から「智慧の法然房」と呼ばれるようになります。

 しかし、法然上人自身のこころにはたちはだかる問題がありました。生きた仏陀釈尊の声が聞こえないという苦悩です。法然上人は決死の覚悟で黒谷の地にある報恩蔵にこもられたと思います。そこで法然上人は善導和尚の『観経疏』の一文に出遇うのです。
一心専念弥陀名号、行住坐臥、不問時節久近、念念不捨者、是名正定之業。
順彼仏願故。

 法然上人はこの文に出遇い、「私がもうす念仏は、私のことを私以上に知っておられる阿弥陀の願いがあってのことである」と、念仏が選択本願の念仏であることを深い感動をもって知られたのです。

 法然上人の主著、『選択本願念仏集』は、親鸞聖人にとって「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」という「よきひとのおおせ」に貫かれた書でした。

親鸞聖人

親鸞聖人(しんらんしょうにん)(日本)西暦 1173~1262

  著書:『顕浄土真実教行証文類』 他

 1173年、京都の南方、日野の地に生まれる。父は日野の地に領地を持つ日野有範、母は源氏の流れをくむ吉光女であったと伝えられているが正確なことは何も分かっていない。その時代は飢餓や疫病のため京の都には死者が溢れ、何時いのち終わってもおかしくない、常に死の不安が横切るような時代でもあった。九歳の時に慈円のもとで得度をし出家をする。

 九歳から二十九歳までの間、比叡の山において出家、修行の生活をおくられる。比叡山では堂僧という常行三昧堂で不断念仏の修行に励んでいたが、ついに二十九歳の時、山を下り六角堂での百日の参籠を決意。そのあかつきに夢告において法然上人のもとへ参る事を決心されるのである。

 法然上人を尋ねた親鸞聖人は「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」の言葉に出遇った。この出遇いの感動を「建仁辛の酉の歴、雑行を棄て本願に帰す」と著し、今後の親鸞聖人の生き方を決定づける出遇いとなったのである。法然門下として歩まれる親鸞聖人の日々は決して平穏な生活ではなかった。旧仏教界からの念仏の法難が起こってくるのである。時に聖人三十五歳、承元の法難において法然上人と共に僧籍を剥奪され流罪(法然上人は土佐、親鸞聖人は越後)になったのである。

 流罪の生活はこれからの親鸞聖人の思想に大きな影響を及ぼすような生活であったと思う。「いなかのひとびと」と言われる人の中に、人間のいのちのたくましさ、やさしさ、みにくさ、かなしさを知らされたのであろう。そして「一切衆生」の意味を体でもって感じられたのではないだろうか。

 北陸の生活の後やがて四十二歳の時に、妻子と共に関東へ旅立たれる。おそらくこの地で『教行信証』の草稿本を完成されたのであろう。六十歳をこえたある年、京に戻られる。おそらく『教行信証』を完成させるためであろう。

 京に戻った親鸞聖人は関東の門徒からの仕送りを頼って生活をし著作の製作に力を注いだ。現存している親鸞聖人の著書のほとんどはこの時代の作である。

 1262年聖人九十歳、十一月頃から病に臥し十一月二十八日、生涯を終えられた。その命終を『御伝鈔』には「口に世事をまじえず、ただ仏恩のふかきことをのぶ。声に余言をあらわさず、もっぱら称名たゆることなし。云々」と著され、念仏の中に命終されたと記されてある。

蓮如上人

蓮如上人(れんにょしょうにん)(日本)1415~1499

  著書:『御文』 『正信偈大意』

 本願寺の八世の留守職であり、真宗再興の人と呼ばれるお方である。親鸞聖人の滅後、衰退の道をたどる本願寺を再興し、聖人の教えを諸国の民衆に教化し、現代の教団の基礎を作られた人である。

 教化方法として「御文」を作成し参拝の門徒に読み聞かせ、各地の寺や門徒にお手紙として送り伝えた。又、親鸞聖人の正信偈、和讃を勤行に定め、みなでつとめ唱和する今の同朋唱和の形を作られたのも蓮如上人の大きなお仕事である。

清沢満之

清沢満之(きよざわまんし)(日本)1863~1903

  著書:『絶対他力の大道』 『我が信念』

 名古屋の黒門町にて下級士族の長男として生まれる。幼少の頃から成績は優秀で常に上位であったと言われる。16歳の時に学問を続けるために大谷派の僧侶となり、時代のエリートとして学問の道に進むが肺結核にかかり41歳の若さで命終される。清沢師の大きな仕事として親鸞聖人の言葉を綴る「歎異抄」を世に知らせた事である。又、清沢師は浩々洞という聞法の会を結成、その中で多くの念仏者を輩出してこられた。名をあげれば暁鳥 敏・佐々木 月樵・多田 鼎・曾我 量深・金子大栄という方々を生み出してきたのである。

 清沢師は江戸期から明治期にかけての、仏教復興、親鸞復興の先駆けの人でもあり、近代において親鸞聖人の信心を新しい表現で自分自身の信念として表明下さった人である。

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